ここいらで生活を一旦見直したい


去年から比べても仕事が増えている実感があって、とてもありがたい。仕事がもらえるのはとてもうれしい。ただ、厄介なことのひとつに、自分のきもちをコントロールしにくいゆえに、そのコントロールのために時間を使い過ぎていて、仕事をする暇がなくなっていることだ。つまり、自分の生活をもっと楽にするにはどうすればいいか、ということを、あらためて考えなければならないなと最近は思い始めている。っていうための、頭の整理のポストなので、お暇な方だけお付き合いください。

みなおしたいことその1:近所のスポーツクラブに、お風呂のために契約しているのだが、これのせいでお風呂の時間がいつもだらだらになっている感じがする。私の部屋はユニットバスなので、家でお風呂に入ることに対して抵抗があったのだが、最近はそれよりも夜出かけることに抵抗を感じており、タオルを用意して外に出て人に会って…が全部億劫に思えるようになってきた。さらに、月額費用がかかっているため、通えなかった時に罪悪感を感じてしまう。別に悪くはないのだけど、それなら時々しっかり良い温泉に行ける方がいいんじゃないか、という気持ちに最近はなったので、解約しようかなあ。お風呂も22時までには入るようにしよう。

みなおしたいことその2:お風呂には行きたがらないくせに、一日のうちに進展がなかったり、嬉しいことがなかった時、安易に外に出て何か買いたくなってしまう衝動がある。結果、それでお菓子を買ったりしても、その瞬間は少しのご褒美に感じるのかもしれないが後から振り返ってもなにもいいことはない。むしろ、ひとりで夜に出かけるの禁止令、にしたほうがいいのかもしれない。というか、安易に深夜に出歩きすぎなのだよ。全くダメじゃないけど、いつも出かけられる、という気持ちではいない方がいい。

みなおしたいことその3:服を買い過ぎているので、ぜったいに減らした方がいいと思う。気に入ったものだけを着るようにすべきだし、もうあまり新しいものを買う必要はない。ただ、入れ替えて風通しをよくするのは必要だとも思うので、近いうちに整理をしようー。お気に入りが増えたことはとても嬉しいし、がんばったんだなと思う。好きな服が買えるようになってえらいね自分と褒めたい。褒めよう。

みなおしたいことその4:朝ごはんをちゃんと食べるようにしたい。ヨーグルトとフルーツとかでいいんじゃないか。とりあえず、決めてしまって、それを食べよう。コーヒーだって自分でいれられるんだから。調子を整えるためのサプリメントはiHerbで買っていくつか飲んでるんだけど、徹夜とか、深夜まで仕事をするのがつづいているとついつい忘れてしまう。でもやっぱりなにかたべたほうがいいと思った。

 

なんかそんな感じ。自分を守るためにちょっと落ち着けよ、という気持ち。もちろん、いろんな欲望をいだいたり、落ち着かない状態も大事なんだけど、それは創作の方に取っておいてほしい。ものがない方が絶対的に頭は働くし、インプットすべきものも素直に頭に入ってくると思うし。あしたから、28歳になるし。できるだけ穏やかな気持ちで過ごしたい。


「幸福な山羊王子とおひめさまのはなし」のはなし


「幸福な山羊王子とおひめさまのはなし」12月公演・2月公演が終演した。(関係者のみなさま、ご協力いただいたみなさま、お越しいただいたみなさま、誠に、ありがとうございました。)

灯台とスプーンの簡単な紹介と、今回の作品の紹介

灯台とスプーンは、「何かに困っている、とらわれている女性」を主に主人公にすることが多く、できれば不安を抱えた女の子(に限らず。これはたまたま私がかつて不安を抱えた内向的な女の子だったので)が少しでも生きやすく、少しでも未来に希望が持てるような作品を作りたいと思っている。

「幸福な山羊王子とおひめさまのはなし」には、えつこ、けいこというレズビアンのカップルが登場する。彼女らに育てられ大人になったつぐみという女性が主人公である。そのほかに、トランスジェンダーのアトリという人物と、痴漢被害の記憶が大人になって湧き出てくるもとこ、という人物が登場する。本筋は児童文学作家であるけいことの別れの儀式を行うつぐみの物語だが、その中でそれぞれの人物の思い、それも「性別」に関することが色濃く現れるように作った。

性をあつかうのはそれなりの勇気がいった。それを役者さんに演じさせることも。私の認識の中にもきっとまだまだ無意識の差別があるかもしれないという可能性や、お客さん次第で受け入れてくれる人、反発を抱く人がいるだろうなと思った。現にひとりの方から、「私は大丈夫だがお客さんを選ぶかもしれない」というアンケートもいただいた。ただ、12月の公演を終えて、これはただのひとつの家族の物語にすぎないと思えたし、伝えきれなかった部分(特に、アトリの性について)をもっと描きたいと思って2月はシーンを追加した。もしかすると重大な誤解が生まれるかもしれないが、そこまで考えたんだから、出さないよりは絶対に良い、気づけなかったところはお客さまに叱ってもらおう、と思った。

さらに言えば2月は、2チームで全く違う演出を行い、連続して2会場という役者さんやスタッフさんに大変な無理をさせてしまったので、ちょっとおかしなアクセルのかかり方になっていたかもしれない。

 

 

対話ができない、話の通じないくやしさみたいなこと

システム化された世の中は、楽だ。会話をしなくてもまわるし、理解し合わなくても生活ができる。面倒ごとはぜんぶ効率化してしまって、考えなくてよくすることができる。でも、それによって少数派が苦しんだり、悔しい思いをしていることがある。奪われたくないだけなのに、「普通の人の普通」が、叶えられない人がたくさんいる。

その不幸は、「理解」があれば少し変わっていくことはなんとなく知っている。他者と「理解しあう」状態は、対話の先に生まれると思う。でも、対話はおなじ目線に立たないとできないこともある。人間は、とくに上下があるわけではないのに、好きで選んだわけではない性別によって目線に初めから高低差があったり、対話の可能性を奪われたりする。目を見て話せば理解し合える可能性がある人たちが、全く分かり合えないのがくやしい、という気持ちが、今回の作品のはじまりだったと思う。

数年前にツイッターで「女性専用車両は男性差別」という発言をしていた人がいて、ええええうそでしょ…と絶望したことがある。一体どうしたらそういう発言に至るんだろうと思い、そこで繰り広げられていた不毛なやりとりを見ると「痴漢をする男は最悪」という女性側のつぶやきから、もしかしたら、痴漢をする「男」は最悪、と解釈して強い反発を抱かれている可能性があった。そんなことはないと願いたいのだが、そこから「女」に対しての反発が生まれ、それを繰り返すうちに、女性用車両は男性差別だ!という発想に至っていたりして……と。推測にすぎないが。主語が大きいと、とにかく誤解と不幸が生まれやすいのは確かだと思う。

そういった「なんでか全く理解し合えないモード」が世界のどこかしこにあって、争いはそこから生まれていくんだなと、ふかく絶望していた時期があった。仕方ないと割り切ることもできるんだけど。

 

性はみんな平等に選べないものだから

でも、「性別」なんてもっとも身近で、しかもみんな平等に「自分で選べない」ものなのに、そのことで分かり合えないままでいるのは辛すぎたので、演劇にしようと思った。すべて書き切れるわけがないので、とても部分的だけど、隣に住んでいるかもしれない家族や、駅ですれ違ったかもしれない人のことだと思って書こうと思った。

近年はMetooだったり、性の多様性に関することが話題になることも増えて、それぞれいろんな問題があるのかもしれないけど、結局最後は「同じ目線で話せるか」ってところなんじゃないかと思って、まずは共感ができるものを目指した。

叶ったかどうかはわからないが、ある方が、「この気づきは痛かったけど観てよかった」と言ってくれたので、たった一人が振り向いて、こちらを見つめてくれただけでも、やってよかったのかなと今は思う。

失敗としては(この他にもいろいろあるが)、前回までのアンケートを流用したら、そこに「性別」という欄があって、男性・女性 としか選択肢がなかったことに、アチャーと思った。もちろん、どんな人が書いているかを知りたいって気持ちがあるけど、それも、もはや、いらないのかもしれないな。

 

お客さんともっと話せる作品を作りたいなあ

今回の作品、特に2月公演はこれまでの灯台とスプーンの作品の中でも最も強い思い入れのある上演になったと思う。もちろん、足りない部分や、悔しかった部分もあったけど。

「私はこう思います」というメッセージを発することはやっぱり怖いところもあったので、まず立ち会って見守ってくれた方がいらしたことが心からうれしかったし、できればもっとたくさんの方に観てもらえるようになりたいとも思えた。

まえも話したことがあるかもしれないけど、灯台とスプーンがはじまるずっとまえ、2012年に大学で演劇をしたときに、「水辺のアンシー」という宗教と姉妹と恋愛のえんげきをつくった。終演後に書いていただいたアンケートの中で、あるお客さんが裏面に小さく、その人の姉のことを書いていた。誰にでも話せないであろう姉の状況を告白してくれたのを読んで、演劇が人の深いところに影響を与える可能性を感じた。(このことを思い出すたびに、その人とお姉さんの無事を今でも祈ってしまう)

2015年から灯台とスプーンとして長編を5本書いて、まだまだな部分もあるけれど、形にしてこれたことに対しては小さく達成感を感じているし、思い返したらどの作品も自分にとってはありがたい時間で、しあわせな記憶が残っていると思う。そのぶんつらいことや、怒ったり泣いたりすることもあったけど、涙で瞳をきらきらさせて帰っていくお客さんの顔は、確実に自分の胸に刻み込まれていて、それを思い出すだけで続けていてよかったと思える。

今回の作品は、今まで以上にお客さんが終演後にいっぱい声をかけてくれて、思いを語ってくれた実感がある。それに、特に2月は演劇をやっていない、観るのがはじめてというお客様の比率も高かった。それがとてもうれしく、自分は続けられる限り劇作家でいつづけたい、という気持ちも強くなったし、作品を表に出していく勇気も前よりは増えたと思う。もっと、胸を張れるものを作りたい。そうなるように、できるだけたくさん考えたい。それでもし、おかしなものを作ってしまった時は、叱ってくれるお客さんたちがついているとも思えるから。今後とも精進したいと思います。

安藤さんがお休み中のため、彼女に観てもらうことが叶わなかったのは少し残念だった。でも、戻ってきたらいっぱい話したいと思う。


意味付けと服選びのちょっと長い旅


質問箱で、柄物は着ないのですか?と聞かれて、「あ、ないですね。柄物があまり好きでなくて…。柄物っていうか自分で選んでない意味付けのされた服をきるのがけっこう怖いところあります。突き詰めていくと逃げ場はないんだけど。」と答えた。

私は意味づけされるのがこわい。親から与えられた名前が「意味はない」から始まっているので、これがきみのアイデンティティでしょ?とろくに知りもしない他者から認定されてしまうのがとても恐怖なのだ(逆に何もない、が辛かった時期も)。もちろん今はそれでヤマアラシのようになったりはしないんだけど。その感覚が服にもあって、それゆえに、柄物の服とか、なんでそれを選んだか自分で答えられない服、を選ぶのが怖かったりする。

服は「ファッション」という言葉以前に生活を支えてくれているものなので、何を言っても仕方ないのだけど、デザインを少しも考えていない服、というのはやっぱりある。ワゴンセールとかで置いてある服の謎のデザインや、見えるところにタグの縫い目が出ていたり、安さのために形や素材を犠牲にして、量をとにかくさばかないと、という感覚が想像される服がものすごく苦手だ。せっかく服の形で生まれたのに。人の手によって「大事に作られなかった」だろう不幸(それが不幸じゃない人もきっといるんだろうけど、私にはそう見えちゃうのだ)と、その先にある「安く使われている人」という構造が透けて見えてしまい、とても悲しい。

20代前半はそれがとてもつらく、しかもお金がなかったので、どう服を買っていいのかもわからず辛かった。今は、できるだけ「服を作った末端の人」がそこまで不幸ではないこと、が想像できる服を買いたいなあと思う。すべてはむずかしいけど。

 

すこし話はずれるけど、3年くらい前に、ある縫製工場のホームページを作った(ディレクターとして)ことがあって。そのときに、いろいろとアパレルの内情を聞かせてもらった。記憶は曖昧だけど、博多阪急などのデパートに出しているそこそこ高い服(2,3万円くらい)を縫って、一着あたり数百円の利益で「うちはかなりいい方ですよ、スタッフもきちんと暮らせているし、まわせているから」と社長さんが言っていた。

その会社は、技術力で買われているところで、出来上がった後のチェックもなんども行われており、縫い目もとてもうつくしかった。スタッフさんとも何人かお話しして、仕事すごくたのしい!とか、きちんとしたものを作っている充実感、みたいな話を直接きいたので、もう、これは出来るだけ安い服よりも、この人たちが活躍できる服を買うのがいちばんだよな〜と思った。なにより、自分のすきなブランドの服を作ったことがある、というだけでもテンションが上がっていた。(工場のこれまで作った服リストにその店の服が載っていた。社長さんが「そうだよ〜そこのもうちが作ったことあるんだよ〜」と自慢げに話すのを聞いた)

それで、いい服が出来上がるのを見たら、それが店で並んでいるのを見たくなって、帰りにその好きなブランドのお店に行き店員さんと話した時に「そうですそうです、●●の工場です!!」と言われて、ウワーーだったら服はここで買うしか!と思って買い物をした思い出がある。

その好きなブランドの代表は、東京のホテルオークラ建替えに反対しているイギリスのデザイナーだった。そんなにいい場所なら一回行っておこうと、2015年に解体前のオークラへ遊びに行ったことがある。今はもう壊されてしまったホテルで紅茶を飲んだ。(ほとんどミーハーな行動で、今でもどうして行こうと思ったのかちょっと不思議だ)たしかに古くて美しく居心地よく、今でもその日のことを思い出せる、いい場所だったと思う。

声を上げるほどあの場所の良さを知っているイギリスの女性が服を作ってるなら着てみたいなと思ったのが、23歳のころだった。それから4年経って、少しずつマーガレットハウエルの服を着るようになれて、うれしい。やっと最初にもどるけど、その服たちのデザインは私にとっては何かを「意味づけ」させないまま、居心地よくいさせてくれる気がしていて、それもうれしい。


九州のえんげき超先輩シリーズ


去年の末から、よい演劇作品がどんどん福岡にやってきていて、びっくりしながらどんどん観ている。キビるフェスもあるし、きららも非売れもガラパもこふくも飛ぶ劇も観て、九州のえんげき超先輩シリーズ(と勝手にシリーズ化)をいっぱい身体に流し込んだ。

九州のせんぱい、まじですごい。語彙がない。けど、まじですごいしみんなすき、だいすき。笑。特にこふくと飛ぶ劇はテーマ的にも演劇で自分がいつか作りたい時間が詰まっていて、本当に語彙がなくて申し訳ないけど「尊い」っていう言葉がぴったりな時間だった。尊さがまだ心臓に突き刺さっている。演劇すごい。

それで、まだキビるフェスは続いていて、観たいもの(観ておくべきだと思うもの)もいっぱいあるのに、ちょっとまって、みたいな気持ちになってしまった。

自分はひとつの作品を観劇すると、それがいいものであればあるほど自分の中で何回か繰り返していろんなシーンを思い出したり、あそこはここにつながっているとか、こういう作り方はいいかもしれないとか、起きてる時も寝てる時も、知らないうちに分解や分析みたいなことをやっているみたいで、いいものを観た後にすぐまたいいものを観てしまうと、バグがおきちゃうっていうのか、混同や上書きがされてしまう可能性を感じた。インプットのキャパがぜんぜん追いついていない。

こふく劇場で涙をダバダバ流して、すぐに飛ぶ劇場(1週間近くあいてるんだけどね)を観ただけでもうわー!ちょっとまって!!ちょっと待って!と、感覚のゲージが決壊して(観劇後久留米の道端でちょっと狂ってた)しまって…。このままじゃ「めっちゃよかった!ただ、なんだったっけ?」になりそうで、恐ろしくなってしまった。みんなこんなにいいものを立て続けに見て、頭がおかしくならないんだろうか、みたいな、感覚。

すっごくすっごく観たい、気持ち、ありながらも、もらった荷物が大きすぎて大事すぎるせいで、このままじゃ行けない。と思い込んでいる。ごめんなさい。まだまだ観劇したいものが続いているんだけど、ちょっと立ち止まらせてください。本番前で精神的にもおだやかでない部分もあるのかもしれない。色々と穏やかになったら行きたいし、行けなかったものはちゃんと覚えているので、必要と感じたら遠方でも観に行きたいな…。

そう、だから、つまり、演劇だいすきなひとたちはもしかしたらみんなキャパオーバーになっているんじゃないか?と思うのだけど、来週末は灯台とスプーンの本番もやってくるので、もし心が穏やかだったらぜひきてください…。われわれも、われわれが感じる尊い時間をめざして、稽古しているので。


物件探しと窓辺のモクレン


2013年から今暮らしている場所に引っ越しして6年目に突入した。見学時白かった壁の色が入居時に突然オレンジ色になってた事件から始まり(それを戻しれもらった代わりにクローゼットはつけないと言われた)、換気扇が壊れる事件、お風呂の蛇口から謎の黒いもの出てくる事件など、築年数の長さからくる諸問題に対応しつづけて2、3年ほどで今の状態になった。

実家の家具はそのまま残してあるので、あたらしいものを用意して、一つずつ揃えていき、未完成状態を味わっていたのだが、去年「なんかもう、一旦完成してしまったのでは」という気持ちになってからは、ずっと引っ越し先を探して物件あさりを続けていた。更新も近づいていたし。

で、今日でた結論としては、このままの暮らしをもう少しつづけようかなあと思った。まだまだ不便はいっぱいあって、お風呂のお湯の調整が難しかったり、クローゼットがないから服をいっぱいは変えなかったり、まあ、いろいろあるわけだが、探しても探してもいい物件が見当たらないし(いいところはやたら高い。条件に合うとこは8〜10万円くらいする。なんとか、払えなくもないけど、福岡市の家賃相場からすると高いしなんだか勿体無い気分だ)今の場所への愛着が異常である、ということに気づいてしまった。

ちなみに、できれば次の家はお風呂の蛇口をひねると40度くらいのちょうどいいお湯が出て・トイレとお風呂が別で・寝室があって・キッチンもそこそこの広さで・壁が白くて・床も明るいか無垢材で・できたらIHで・洗濯機置き場が室内で・駅から近くて(体力がないので不安)・クローゼットがあって・日当たりがそこそこいい場所。っていうのを見ていると本当に高い。逆に、今、この部屋、やっすくないか…?とも思えてしまう。設備はあんまり綺麗じゃないけど、居心地も立地もめちゃめちゃよく、少なくとも今の生活にはとてもフィットしている。

それなのにどうして引っ越しを考えていたかというと、昨年末から「変えたがり」の気持ちが出て来て、自分にお金を使おう、とか、居心地をもっとよくしようとか、そういう気分が出て来てしまい、しかも一緒に働いている松木さんから「田村さん次は家賃二倍のところにお引越しね」という凶悪な脅しもされ(笑)まあ部屋も完成した気持ちになったので二倍とはいわなくとも次に行こうか、という思いが出て来ていた。あと無性に寂しくて猫を買いたがっていた。もちろん、上の条件をクリアしてお値段もそこそこな超いい物件に出会えたら引っ越したいきもちもまだ消えたわけではないのだけど。

加えて、昨年の終わりからはものすごく忙しかったのもあって、部屋の状態もあまりよくない時期が続いて(なぜか本当にすぐ散らかる)、愛着が失われていたのもある。あと自分はもしかするとかわいそうなんじゃないかみたいな気持ちに一人になるとなってしまい、環境を変えた方がいいんじゃないかと思っていた。

それが、だんだんと、相変わらず仕事はまだ山状態なのだが、すこし心に余裕が出て来たというか、ここ数日いろいろなことがあって自分が何を考えているか言語化できたことだったり、心の整理が(演劇でどうやっていきたいかが少し見えたり)ついてきて、ちょうどその頃に少し部屋を綺麗にして好きな花(いまの季節はやっぱりモクレンなんだよなあ)を活けてみた。

その日はとくになにも感じなかったのだけど、今日なんとなく、午前中曇っていたがそこそこ明るい窓辺にカフェテーブルを置きなおして、そこに大きな花瓶を置いてガラスの花瓶とモクレンを見たときに、なんだこの部屋は綺麗じゃないか、と思えたので、部屋探しを一旦やめることにした。もちろんきれいなのはモクレンなんだけど、それが存在していい部屋だったなあと気づけたというか。

それに、最近は、稽古でしょっちゅううちを使うので、人が通る回数も増えたのもよかったのかもしれない。もうちょっとここで思い出を貯めていけるんじゃないか、とも思って。

物件探しに何時間もつかっていたので、一旦そのループから抜けられると思うと少しホッとした。仕事はいっぱいあるから、それをどんどん片付けて行こう。そして部屋はきれいにして、ときどき花を変えよう。今日は土井善晴さんの本を予約したし、今年はいろいろな料理をしたり、いい器を見たりして、買うこともそれ以外のことも楽しみたいな。と思った。


あたたかい地獄へようこそ


いつかの稽古終わりにバス停で話していて、山羊王子の座組みの何人かと、そこに現れたケニーさんと話していて「あたたかい地獄」というワードが爆誕した。この世界は、逃れるには勇気と体力と経済的な力と覚悟などなどが必要な、あったかい地獄であふれている。いい言葉だなあといまだに反芻している。

私、ショッピングモールという俗物的で資本主義の手垢にまみれた(ひどい)場所が好きだということにここ1,2年で気がつく。居心地の良さ、守られている感、雨に降られなくていい、全部揃っている、すごい便利。イオンモールや、昔だったらダイエーとかができたおかげで個人商店がどんどん潰れていった過去を知っていて、だからこそ俗物的で資本主義の嫌な部分にまみれて、やり方ももはやレッドオーシャンで、とにかく大きいものが、力の強いものが勝つ世界で、でもそれを否定できない悲しさを感じながら行く。天神のイムズが潰れて、新しい建物に生まれ変わることに強い反発を抱きながら、今日はマークイズ福岡ももちという、同じく三菱地所系の真新しいモールにいる。とにかく経済で回る国に。でも、広くて歩きやすくて、人通りもあって、駐輪しやすくて、よっぽど街に行くより良いとさえ思える。居心地も良いし…。

いくつかの映像作品でスラム化したショッピングモールが出てくるのを見たことがあるけど、もしかしたらこの場所も30年とか40年後スラム化している可能性だってある。永遠なんてない。福岡市はそれをさせないために資本主義的に強くあろうとしているんだけど、つまりそれは他の場所が衰退してスラム化する可能性にも繋がっていて、それは誰かの故郷のはずで、そういうことを考えるだけでもういろいろと辛い。きっとみんな持っているだろう場の記憶がなくなるのが辛いからついついそういうことを考えてしまうんだろうなあ。私、イムズのことが相当好きで、あそこがなくなるだけでめちゃめちゃ辛い。TOKIOや上のsousouで家族とランチした思い出も、エリザベスマフィンをお土産で買ってきてもらったことも、アルティアムで見た素敵な展示も、イムズホールで見た演劇も、好きな友達とうまいお肉とお蕎麦を食べたことも、場がなくなってしまうだけで、忘れてしまうんじゃないかっていう強烈な悲しみがあるよ。それにあれが全部機材で壊されてしまうっていう想像をするだけで、頭がクラクラしちゃうよ。

そういう悲しみがありながらも、力がないから、新しいショッピングモールに行ってしまう。イムズも新しく生まれ変わったら、行ってしまうんだろうなとも思う。かなしいけど、きっとそうだと思う。

 

いみもなくかなしみを書き綴っているけど、今日は仕事をいくつ片付けられるんだろうか。

一体じぶんのショッピングモール好きはどこからきているんだろう、と振り返ってみると、高校生の時、隣駅にイオンモールができて、田舎だったので遊べるところがそこしかなかったから、その記憶が強いんだと思う。行く店は決まっていて、ずっと好きな雑貨屋と楽器店をぐるぐる回っていた。スターバックスにも行った。フラペチーノがはやるちょっと前だから、普通にコーヒーを飲んでいた。今の高校生が、スタバの新作をこぞって買って写真を撮る姿を、あんまり愚かだとも思えない。ほどよい消費ができる場所がそもそもなくて、だから、繰り返しそれを求めてしまうんだよなあって。これもあたたかい地獄だ。

世界はもっと広くて、スターバックス以外にも素敵なものはたくさんあるけど、今も私はスターバックスでコーヒーを飲んでいる。ここのスタバも、天神ほど混んでないし、広い机があって、電源があって、長居しても怒られなさそうだから最高なのだ。ちょうど良すぎる。どこにもユートピアなんてないけど、このスタバ輪廻から抜け出せない自分がいるんだなあ。コーヒーは100円でおかわりできるし…。

 

あ、でも、もちろん、別の視点で考えると「多くの人にとって居心地のいい場所」を作り出している人は本当にすごいと思う。ベビーカーでも車椅子でも行きやすいショッピングモールはきっと多くの人にとって救いになるし、スターバックスの店員さんは困っている人に対するフォローのレベルがとても高いと思うし…。ああこれ、ショッピングモールとスタバだけで意味もなく延々と喋れるな…。


山羊王子稽古、全て満月のせい


2月の公演に向けてぞくぞく稽古が続いている。あたらしい解釈や、こまかな演出をみんなで発見して、それいいねを増やしている感じ。12月に公演したくろやぎチームもかなりいろいろなシーンで変わりそうな予感。そして、あらたなしろやぎチームは、くろやぎとかなり違う方向でアプローチしているので、おなじ脚本なのに全然違うひとたち、という印象を抱けるのでは無いかなと思う。そして、それぞれにいいところがあって、違った見どころがある。世界にはいろいろな家族があって、その一例、という感じで、できればほんとは、どちらも見てほしいなあ。

稽古は遅い時は大体22時半くらいまであるので、とてもおなかがすく。せんじつは、ちょっとおなか空いたなと買い物に出て、おにぎりがあるのにさらにサンドイッチ、ガム(しかもなぜかボトル買い)という謎のチョイスをしてしまった。スーパームーンの日だったので、みんなやたらテンションがおかしく、わたしも少しおかしい感じで、ことごとく「全て満月のせい」と言って片付けていた。

そんな奇行をしてしまうのは、リラックスしているからだとは思う。12月を超えて、同じ演目をまだまだ作り続けるというのはなかなかの不安もあったけど、今はとても面白い。信頼しきっているし、ただしく質を高めていきたいという気持ちがみんなあって、たのしい。本番まで一月になってしまったから、より盛り上げていきたいなあ。12月観てくれた方も、ぜひきてほしいなあ、、増えたシーンもあるし、より濃くなっていると思うので、違いを見てほしい。


残すべきものを残さないと


先日のディスカッションで気づいたこととして、戦争や、戦後を生きた人たち、という姿が若い人にとってファンタジーになっているのかもしれないと思う瞬間があって。あまりにもびっくりしてしまい、いやそれはやばくないか…?とショックが続いている。でも確かに、自分のおじいちゃんやおばあちゃんで戦争経験をした、という家庭は減っているし、話せる人も減っているんだろうな。広島や、長崎にゆかりがあれば少しは変わって来るのかもしれないけど、戦後特集をわざわざ観るほど学生は暇ではないし、教科書に載っている、例えば織田信長、ぐらいの感覚なのかもしれない。そうだよなあ、織田信長のことを、別に今関心を持って生きないしなあって。

自分が演劇の中で「戦争」や「戦後」を使おうってことは今まであんまり考えてこなかった(自分が考えなくてもまだ世の中がやっていることだと思っていた)けれど、これを知ってしまって、他人がやってくれるという感覚には戻れないと思ってしまい、今とても井上ひさしを読みたい、あわよくば上演したいという気持ちが盛り上がっている。残すべきものを残さないといけないんじゃないか、っていう感じ。まだこれをする、何がしたい、とか決めたわけではないけど、頭の中で大きく膨らんできている。残すべきものを残さないと、、

井上ひさしが好きだ。もともとあまり観劇をできている方ではないが、井上ひさし、こまつ座だけは、思えば、いつのまにかいろいろ観ていて、もちろん物理的に無理で映像も含むが、組曲虐殺、父と暮らせば、紙木町さくらホテル、きらめく星座、頭痛肩こり樋口一葉、どれも好き。そして宮沢賢治も大好きなので、イーハトーボの劇列車を観る予定がある。ほかにもあるかもしれない。いつかあんな戯曲を書けるようになれたらいいな、と思う劇作家をあげるとしたら、やっぱり一番は井上ひさしで、あんなにうつくしい戯曲をかけるひとはいないと思っている。っていうか、なんであんないいものを、あんなにいっぱい書けるんだ。遅筆って言われてるけど、今ウィキペディアみたら、おそろしい量書いてて…。

今年はもっといろいろ読み込んでみようかな。既存でやるなら、今、欲求が強いのは井上ひさしだ。読みたいなあ。井上ひさしと別役実がスタートでよかったなあ。


新人戯曲賞の最終候補作品を読んだ


タイトルの通りで、新人戯曲賞の最終候補作品を読んだ。1/19に、FPAPの方から新人戯曲賞ディスカッションなる集まりに誘われて、期限付きであれば読むだろうと思っていたが、思いの外一月が忙しくなりすぎて、前日に一夜漬けのような感じで一気読みしてディスカッションに参加。参加者の方と話していくなかで、自分が読めている部分と、気づいていなかった部分が見つかって、戯曲を読むのはやっぱり楽しいことだなあとあらためて思った。あと、学生の時よりは、すぐ読んで理解する力がついてきてるのかもしれない。

どの作品も、潜っていけばいくほど作家の狙いと熱量に気づけたような気になって、それに気づいてから想像するシーンはどきどきするものばかりで、こういう風に燃えるような、もしくは凍てつくような、いい作品が書けたらいいなと思った。読み進めることで想像以上に親しみを持ってしまったので、全部上演されたものをみてみたい。(あくたもくた。は、仕事が入らなかったらいく予定だったのだけど…涙。)

みんなで読むっていうのはいいねえ。もっといろんな人の言葉も聞いてみたい。今週末大分である最終審査に今の所いけないのがくやしいな。この日も仕事が入っている。


プリンと珈琲とくしゃみのこと


福田さんと一緒に、そふ珈琲というずっと前から行きたいと思っていたけどなかなか行けなかった珈琲屋さんに行った。プリンとコーヒーを頼んで、でてきたプリンはとてもしっかりとした、ホームメイドなイギリスのプディング、という感じの味で、ほろにがく美味しかった。その近くにあったお店も、また行けたらいいなあと思いつつ。最近できたお店のようで、店内の写真撮影禁止らしい。そういうことを聞くと妙にすてきに聞こえてしまうので、あたらしい楽しみができてうれしい。それから一緒に場所を変えて作業をして、夕方に切り上げてお花と、コーヒーを買って帰った。いい休日(仕事してるけど)だったなあ。

自分はおそらくなんらかのアレルギーをもっているのだけど、まだ何に反応しているのか解明していなくて、ただ人よりもくしゃみの回数が多かったり、ある場所にいくと必ず鼻が痒くなったり(かゆいだけで病的ではないのだけど、何も集中できなくなるほどひどくなる時もある)、理由はわからないけど夜になると急に鼻がかゆくなってくる日もよくある。今日もくしゃみをしてしまい、はずかしいきもちになり、体質的なものだから仕方ないと思いつつも、この自分のちょっと不思議なくしゃみはどういう時に起こるのか興味をもちはじめた。耳鼻科にいくべきなんだろうか。ともだちがアレルギーテストしてたけど、やってみるといいのかなあ。

年々、身体のコンプレックスとか、不調に対して一つずつ対応してきているはずで、昨日は歯医者に行って虫歯を治した(麻酔を使わないで削ったので超痛かった)し、よりよくしていきたいきもちはありながらも、あっちを治せばこっちが気になり、身体をメンテナンスするのに時間がかかりすぎている。やっと、腰痛系は去年少しましになってきた気がするので、次は耳鼻科か、皮膚科か、あとは歯科矯正をするかしないか、、という感じで、もともと身体が強くないので、うまく付き合っていかないといけない。確か去年の秋に占いに行った時も占い師の人に「身体強くないね、死んだりはしないけどずっといろいろ悪いね」と言われ落ち込んだ記憶があるけど、それは間違いではないなあと…。

ただ、サウナに行き始めたり、サプリメントなどを少しずつとるようになってからか、ここ2年くらいは明確な「風邪」にはなっておらず、「病気」で何かを断ったりダメにしたことはないのが救いだ。そうではないところで体力的にきついのか、なぜか起き上がれなくなったり、なぜか昼まで動けなくなったりはよくするので、やっぱり元気とは言い難いんだけど。


ワンピースブームと「好き」について


タイトルの通りなのだけど、年が明けてワンピースをとても着たい気持ちがどんどん強くなっており、今までは「ハンガーラックにたくさんかからないし服は増やしても仕方がない」などの理由でいいなと思っても買わないを選び続けていたワンピースを、いつのまにか探しているというシーンが増えた。ふしぎだ。しかも、形が好みだとうわ〜〜いいな〜〜となってしまう。元気が出る。ふしぎだし、危険だ。どうして急に物欲が盛り上がっているのだろうという話を稽古場でしたら、福田さんに自分が何を好きなのかが明確になったからではないかと言われた。確かになんとなく好き、が、より明瞭になって、はっきりと「これが好き」がわかるようになってきたのかもしれない。

かつて、好みだけじゃなくて、あらゆる物事に対する感覚が、偏らないように偏らないように、と思っていた頃があって、だいたい19とか20くらい。自分が何を好きかを他人にさとられたくない、という思い。そういいながらも、確かに強烈に好き、なものは点としてあって、それだけはゆずらない、でもあとはなんでもいいや、という感じ。あと、浅い人間だと思われたくなかったから、どっちの意見も聞けるし、「あれが好きな人」って悟られたくなかった。

たとえば「東京事変が好き」なんて二十歳くらいで知られてしまったら、知りもしない人から「あ〜〜〜、いるいる、本能〜」という謎の迫害を受けるのも嫌だったし、自分も「EXILEが好き」って人をみつけたら「あ〜〜〜」って言っちゃう可能性があったから。それはよくあることで、とくに悪いことではないのだけど、傷つきたくなかったんだろうなあ。

それが、だんだん変わってきて、というか、演劇を作りたいと思ってしまった瞬間から自分が好きなのはこれだと言えるようになる必要が出てきたし、「演劇をしている人、脚本書いたりデザインしているフリーランス」っていうのはすでに社会的に意味不明と思われがちで、自分がオリジナルである(これはクローンでない限り全人類そうなんだけど)という感覚を持つシーンがあったり、生きるために「何を選ぶべきか」を考えるようになったからなのかななんて、

さいきんは誰にでも、初めての人にも「これが好きです」「これは嫌いです」をはっきり言えるようになってきた。あと、昨日のまわしよみ新聞でも「これを自分は不快に思いました」と、男性向けサプリメントの広告の切り抜きを共有したりできるようになっていた。言いたいことを言って、それが何故なのかを前よりは話せるようになってきたし、他者の意見に対しても、自分なりの返答がやっとできるようになってきた。自分が何者かをやっとわかってきて、やっと他者とコミュニケーションがとれるようになってきた、とも言うのかもしれない。なんて。

そう、だから、25歳をすぎたころからすごく好みの服が見つけられるようになったんじゃないかなあ。好みの作品、自分が「良質」だと思うもの、も、ある程度は見つけられるようになってきた。これはとても嬉しいことだなあと思う。


まわしよみ新聞劇ぶじに終わりました


大人の男と女、をテーマに演出者として参加させていただいたまわしよみ新聞劇、無事に終了することができました。試行錯誤の上で、失敗しないかなと非常にそわそわしていたので、発表もできて、もー、とってもホッとしてる。それに、楽しかった。五味さん、重松さん、参加していただいたみなさんのおかげです。あーーよかったーーー。気にしてくださっていた方も、ありがとうございます。無事です!

新聞をじっくり読み込んで、気になった記事を共有して、語り合って、みんなで大きな新聞をつくって、それを元にみんなで劇を作る。13時にはじめて、17時には退館のため、タイムアタック的な部分もありこんなに緊張したのはひさしぶりだった。

実際にやってみると、共有の段階からとても盛り上がり、人の温かみを感じる記事にほっこりしたり、ついつい抱いてしまったモヤモヤや、時代柄抱いていた共通の不安が見えてきた。「不安と希望入り混じるさまざまな世代の平成の終わり」という感じのの新聞ができあがり、出てきた記事からみんなでアイディアをひろい、想像していたよりもずっとスムーズに劇をつくり、参加者の皆さんもそれぞれの役をすてきに演じていて、みんなすごい…すごい…と思って見ていました。こんなに短時間で劇を作って発表するなんてこともほぼないため、ひじょうに刺激的な時間だった…。

きっと、参加していただいた方それぞれが選ぶ記事と、その記事を元にみんなで何を話すか、そして演じる方それぞれの持ち味によって最終的に立ち上がる作品が大きく変わるんだろうなあと思った。テストプレイの初回・2回目は手探りでうまくできずに自信が地に落ちていたけれど、無事に終わったおかげで、少し取り戻せたような気も、する。肩の荷がおりてすぐ食べたこまどりうどんがとても沁みました。

これからは2月に向けての稽古を頑張ろうと思う。みんなで楽しく、ゆたかなきもちで作品作りができる環境をできるだけ作っていきたいな。


新聞劇テストプレイときららさん


明日1月14日、成人の日に「まわしよみ新聞劇」という催しで演出家として参加する。テーマは「大人の男と女」。今日は新聞劇のための最後のテストプレイをして、やっと何がしたいのかが少しわかってきた感じ。時間をかけて一緒に考えてくれた五味さん、本当にありがたい。ありがとうございます。ワークショップ、を頑張ろうとしてしまった私に、いつもやっていることをやればいいんですよと教えてくれて、しかし自分にとっての「いつも」がなんなのか全然わからず苦しんでいたところをカウンセラーみたいに紐解いていただき…。明日が無事に成功すればいいのだけど、完全に立ち上げることができなかったとしても、参加者のみなさんと一緒に考える時間をしっかり楽しむことができたらいいなと思います。やわらかい頭の状態をつくれますように。

明日のために曲を5つ選んだのだけど、テーマを決めて音楽を選ぶ、というのはとてもとても楽しい。うれしい。この間、なりきよさんに「田村さんにとって平成を代表する曲って何ですか」と聞かれてうまく答えられなかったんだけど、30年を振り返って30曲選ぶ、とかならできるんじゃないかと考えてた。

夕方は劇団きららを観に大橋へ行く。行けてよかったなあ、人間への愛がいっぱい詰まっていて、ほんとに素敵な作品だった。

それから家に急いで帰って打ち合わせの仕事をして、食事をして、明日の準備などをゆるゆるとやりつつ、仕事が進んでないなあと嘆いている(にも関わらずブログなんて書いている)。あったかい飲み物でも淹れようかなあ。少しは心救われるだろうか、なんて。


あたらしいmacがきたので


appleの初売りでmacbookProを購入したので、いろいろと設定をしつつ(illustratorを入れるのにめちゃくちゃ時間がかかっている)文章を書き慣れるためにもブログを開いてみる。新年明けてから働かないといけない理由や現実にも仕事が山のように降ってきてしまい、ブログを書く暇があるなら別のものを片付けなさいっていう状態ではあるのだけど。

これを打ちながらも手の甲がトラックパッドを押してしまうみたいで文章を書くためにはいままでの感覚から変わり、慣れるまでかなり苦労しそうな予感。でも、メモリも大きくしたし、前のPCは6年近く使ってしまい(たくさん稼いでくれた、いまもまあまあ元気)イラレが急に落ちてデータも残ってないなんてことが頻発していたので、仕事が捗るのではないかと期待しています。11インチから13インチに変わったし。(いままでそれでよくデザインをやっていたなとも思う…)

仕事と稽古を行ったり来たりの毎日で、久しぶりに節約思考になっていることもあり、この1月は家にある食材をどうしたら使い切れるかみたいなことを考えるブームがきている。しばらくしたら終わるんだけど。年が明けてから、牛乳と野菜は買いに行ったけど、それ以外の買い物をせずにほとんど生きているからすごい。外食は3回くらいした。意外と貯蔵されている。食材。

オーブンレンジのオーブン機能を全く使っていなかったのをなんとなく使って冷凍庫に入っていたお肉と野菜をグリルしたり、いろいろ野菜の入ったスープやお味噌汁などをつくったり、缶のボルシチとか、コンビーフとか、冷凍のパンとか、買ったまま忘れてしまっている食材の多いこと、、もうしばらくはスーパーに行かなくても生きていけそうなんだけど、さすがにそろそろ気分を変えたいので時間がとれたらスーパーへ行こう。去年はなんでも味噌汁にできる能力を身につけたので、今年はオーブンで焼けるレパートリーを増やしたいな。


こっそり今年のやりたいこと100


あけましておめでとうございます。
今年最初で最大の自己啓発、やりたいことや気をつけたいこと100個、おいておきます。

 

01新しいえんげきをつくる

02団体を・作品をもっとよくする

03健康で文化的で精神的に豊かな生活

04いい演劇を見る

05制作業務の効率化

06経済的に安定感をもつ

07団体のめざすところを言葉にして共有する

08すきな人たちとたくさんお話しする

09理由なくお金を使いすぎない

10ブログを書く

11映画を50本くらい見る

12保湿をする

13おいしいお茶を家で飲む

14料理を楽しむ

15手紙を書く

16写真を使ったデザイン

17ときどきサウナに行く

18図書館へ行く

19落ち着かない時は散歩する

20もやもやしても理由なくコンビニ・カフェに行かない

21魚の調理を研究する

22毎朝コーヒー淹れる習慣を復活させる

23履きやすい靴を探す

24好きな服を買うようにする(とりあえずで服を買わない)

25良い感じのワンピース

26絨毯を探す

27からだをあたためる

28いい傘買うイイダ傘店3/28(木)-3/31(日) アートスペース・テトラ見にいきたいな

29時どき花を飾る

30つたえるための言葉のバリエーションを増やす

31乾燥機能つきの全自動洗濯機を検討

32あたらしいmacを買う初売りで購入した!

33投資を勉強

34ひとつの場所でじっくり旅行をする

35女でも男でもないじぶんのしっくりを探す

36器を見るようにする

37家にともだちを呼んでお茶をする

38身体が痛くならないように気をつける

39玄米を食べる

40発声練習する

41スパイスをつかう今うちにある:ハーブ系、クミン、コリアンダー、シナモン、トリュフ塩

42ものを言えるようになる

43いいライブに行く

44会いたい人に会いに行く

45冬用の帽子を探すノックさん?

46いい展示に行く

47掛け時計を探す

48ときどきプールに行く

49プールで泳いでもすぐに寝ないように気をつける

50リアル脱出ゲームに行く

51演劇の本を読んで、感想を書く

52いらない服を捨てる

53猫カフェに行く

54豆花を食べる

55iPhone新しくする

56できるだけ早起きして午前中から活動する

57部屋を綺麗に保つ

58稽古場になりそうな物件を調べる

59確定申告しやすい仕組みをつくるレシート入れを買った

60お菓子をたべすぎない

61でもときどき鈴懸に行く

62ときどきフォートナム&メイソンにも行く

63美鈴さんとなにかしたい

64既存の戯曲で上演できるものと出会いたい

65抹茶ラテをマスターする

66おいしいスクランブルエッグをすぐ作れるようになる

67いいことがあった時は手帳につける

68おいしいチーズとハムを食べたい

69本棚の整理をする

70収納ベンチの整理をする

71歯医者に行く

72ドルツのジェットウォッシャーをサボらない

73創作以外の効率化を考える

74壊れたお気に入りのイヤリングを買い直したい

75お湯をたくさん飲む

76温泉に行って執筆する

77作りたいデザインをつくる

78朝ごはんをしっかり食べるようにする

79作業がしやすくなる環境を考える

80お金を稼ぐことに気を取られて創作の時間を失わないように気をつける

81ただ死なないためにちゃんと働きはする

82意味のない時間・非効率さを楽しむ時はしっかり楽しむ

83仕事のレベルアップ、脚本もデザインも、そのための投資を惜しまない

84時間ができたら編み物もしたい

85義務感だけで集まりに参加しない

86何をして生きていきたいのかを忘れないようにする

(つまり、稽古の時は作品がよくなるように、稽古がない時は良い脚本がかけるように、というのを忘れない)

87できるだけ、夜に期待しないで、寝る

88お気に入りのものを大事に手入れして長く使う(クリーニング、靴を磨く、革の手入れ、など)

89テーブルクロスをかける

90ドラマいろいろ見てみる大晦日はアンナチュラルを見た

91月額制のものを見直す

92季節のおいしい野菜をたべる

93毎月テーマ・目標を決めて進む

94毎月10曲選んだプレイリストを作る

95いっぱいひとによろこんでもらいたい

96稽古場をたのしく真剣な創作の時間になるような環境をつくる

97よく考える、ただしネガティブをためこまない

98嫌なことがあっても元気良さそう・相談しやすそうな状態でいる

99どんな現場でも信じてもらえるようになりたい

100とにかく機嫌よくいる

 

今だけの感覚なのでこれから変わる可能性はあるけど、何があっても、できるだけ機嫌よくいきたいと思います。


胸を張って嬉しそうに歩きたいな


2年か3年前、近所を歩いていた30代くらいか、かっこいい女性とすれ違った。とくべつなにか、すごい格好をしていたわけではないのだけど、そのひとはぴったりのサイズの黒いブーツを履いていて、しゃんと歩いているように見えた。あと、なんだか嬉しそうだった。それで、それを見たときに、その時の私の精神状態がどんなだったかはもう覚えていないのだけど、あーーー、あの人になりたいって思った。

胸を張って歩きたい。もともと姿勢が悪くて猫背だから、っていうだけじゃなくて、あの胸にはいろんな自信とかよろこびとか、これまでのうれしかったことかなしかったことが詰まっていて、それでも世の中に向かって胸を突き出して歩いているんだ、と思った。

女の体を持って、胸があることが、とてもよくないことのような気がしていたことを思い出した。これがあるから、いろんな誤解が生まれるし、これがあるから、自分は恥ずかしい生き物だと思っていた。そもそも自分が3Dの存在であることに違和感を感じていたのもある。もともと立体の認識が弱かったのもあるかもしれないけど、3Dであるにしても、なんでおっぱいがあるんだよ…って違和感はずっとあった。

やっとこの身体になれてきた。みたいな言い方をすると憑依してる幽霊みたいにきこえるかもしれないけど、実際そのきもちが強くて、魂のほうがすごいぶっ飛んでるのになんで私の体はこんなに小さいんだ?なんでこんな顔をしてて、しかも胸があって、しかも肩とか腰とかすぐ痛くなるし。

SFで見る「液体の中に脳みそを浮かべて脳だけめっちゃ生きてる」みたいな感じの方が意外としっくりくるのでは、なんて想像をしたこともある。きっと身体の変化に心が追いついてなくて、20代の後半になってきて、身体の形が一旦安定してきたから、追いついてきたんだろうな。

やっと追いついてきたのに、妊娠したら、どうなっちゃうんだろう。

自分の身体の認識もやっとわかってきたばかりなのに、そこに同世代のともだちの何人かは、別の命をやどした。それは、別のものなのに、自分の体をつかってつくるわけだから、私はいろいろとごっちゃになってしまうんじゃないかって、想像したりする。今の所、そういう未来はない場所にいると思ってるけど、これまで「これはない」、って言い切れるほど予測できる未来を歩んでいないので、わかんない。

はなしを戻す。胸をはりたい、という気持ちが生まれてから、どうして私は胸がはれないんだろうということを時々考えるようになっていった。自信がない、ってことだろうか。つまり、背が低いから?顔がきれいくないから?父も姉もおそろしく頭が良いなかで自分だけ九大に受からなかったから?早稲田の院に行くのを中途半端に諦めたから?むりして家を出たから?好きな人と一緒になれないから?(ろくに出してもねーのに)戯曲賞が取れないから?いい仕事がこないから?お金持ちじゃないから?健康保険を払い損ねてたから?それとも確定申告がいつもギリギリだからか?

いや全部なくてもべつに胸ははっていいはずじゃないか?おっぱいは隠せないし、ないことにできないものを「ある」と宣言して生きるのは悪いことじゃないのでは?

胸を張ることに理由ってないのに、なんで自分はひそひそと隠れるように生きているんだろう、と思った。実際、隠れてなきゃいけない案件や、隠さないといけないと思い込んでいる胸はあったけど、隠すことはそれはそれですごくつらかったんだと気づいた。だってあるから。あるものを無いとは言えない。

それでがんばって練習してる。今もまだあんまりうまくいかないけど、がんばってる。という、つまらぬ記録でした。

この気づきをもたらした女性みたいに、街を歩く、というだけで、だれかを振り向かせることができるかもしれない、っていう、気づきもあった。


土田英生さんの戯曲講座に参加しました


あまりにも忙しくしすぎて、ブログを書く時間をなくしてしまっていた。でも、ちょっと今夜はゆっくりできるので、最近のことを書く。

12日〜17日は、キューズリンクさん主催・土田英生さんの戯曲講座実践編に参加した。短編のコメディを初めて書いて、1週間でいろいろなお話を聞いた。まだまだ自分には見えていない部分があり、でも、どう書けばいいのか、どう改善していけばいいのかわかっていなくて、そこにも不安と孤独を感じていたんだ、ということに気付かされた。

ひとりぼっちで書いていると暗いトンネル、というか、迷路ずっと歩いてるような気分になる。そのため、ちょっと見えた小さな光が道しるべだと思ったり、拾った石ころが宝石だと思い込んでしまいがちで、でも、実際はまちがいだったり、もっといいものがあったりする。間違いなのに、苦労して見つけたものが大切に思えてしまって方向を変えられなかったり、石ころを握りしめたまま足元の宝石に気づけなかったりして、それにいかに気づいていけるか、見つけられるかなんだなと思った。

デザインもそうで、はじめのうちは「このデザインはどうしてよくないのか」を気づくまでにとても時間がかかる。ときどき、「あなたはデザインセンスがあるから」と言われることがあるけど、これは生まれ持ったセンスじゃなくって、繰り返し見て・考えることで手に入ったものだ。だから自分でもまだまだな部分があるとわかっているし、それでも自分の中の批評にひとつずつ答えていければ技術が上がっていく実感がある。劇作に関してもきっとそういう、頭で考えて続けていけば見つけられるものがあるはずだ、ってことを、信じようとあらためて思った。

そして土田さんだけでなく、集まった福岡の劇作家さんたち(知美ビリーバーズという名前がついた)と1週間過ごすことができたのも、とてもよかった。おなじ課題について一緒に考えたり、ただもくもくと書く時間もあって(インターネットのコードを書いたりする界隈では「もくもく会」というものがあるが、それの劇作家バージョンみたいな感じかな)よかった。もちろんその時間は個人プレーなのだけど、「あっ、あの人も悩んだりするんだ!書けないよ〜って言ったりするんだ!」という一面をリアルに見ることができて救いだった。

劇作家も漫画家も小説家も詩人も、それだけで食べていない人にとって「好きで書いてるんでしょ・趣味でしょ」という無意識の常識に追い込まれることがある(少なくとも私はそうだった、中学生で絵を描いているときも、楽器をしているときも、高校生で小説を書いている時も、大人になっていけばなおさら)。特に絵や楽器は「自分がやらなくてももっと上がいる」と思っていて、それによって手を抜いた、というか、他のやるべきこと(学生だったのでお勉強)に集中していた。

でも、本当は最後まで真剣でいたかった。自分の作品はより良くしていきたいし、できればそれでちゃんといろんな人に認めてもらいたい。褒められたいし、自分が納得したい。講座を終えて、その素直な欲望を、演劇でも素直に持ち続けていこうという気持ちがより強くなった。売れたい。もちろん、がんばってもうまくいかないかもしれないし、売れる、ということがまだどういうことなのかわからないけど。でも、ちゃんとつづけたい、って。今の私は演劇を「趣味」って言葉で線引きできるほど、うまく離れられないくらいには愛してしまっている。思えば演劇するためにフリーランスになったんだし。それに、今なら昔より少しは「長いものに巻かれ」ないでいられる気がするから。

がんばろう。


映像のための台本を初めて書いてる話


いま、プロットを出してそこから映像のための脚本を書いている途中で、昨日はやっと第一稿を提出した。どういうわけかまったく普段書いていないようなものを書くことになってしまい、じぶんでもびっくりしてる。でも道場だとおもっていろいろやってみるしかない。とにかくまずはちゃんと納品することに向かっている。

プロットを作ったあと、その通りにシーンを埋められたことが自分でもちょっと意外で、ホッとしている。演劇だったらいつも抽象舞台だからもっといろんな可能性が発生するんだけど、映像はそういうわけには行かないし「場所」「時間」ありきの脚本なんだなということがなんとなくわかった。あと極端にイメージや年齢がはなれた役を俳優さんにさせるのはとても難しい。から、ハマるひとから書いていく。まあ宛て書きだから、イメージ通りにはなる。

物語としても一応ちゃんと成立しているんだけど、どうしても想定内の感じがしていてむずかしい。もちろん映像だから物理を超えられないのはわかっているし、想定外なことをしようとしたらとにかくお金がめちゃめちゃかかるよね〜ということだけはわかる。映像の脚本のひとたちは、カメラがどんな風に絵をとるのか、とかいったこともしっかり考えてるんだろうか。要求には多分こたえているんだけど、作品として面白いものになるかというと、まだちょっと自信がない。


劇団しようよの「パフ」を観た


10月の下旬から、今まで、ものすごい激務であった気がする。何が起こっていたか思い出すために、あとは頭の整理のために、ちょっとずつまたブログを書いていきたいと思っていつつも、やっと今日になってしまった。でもさかのぼって書いていくかもしれません。

昨日は枝光まで行って劇団しようよさんの「パフ」観てきた。

寝て目覚めて体験の記憶が定着してしまい、これは長く身体にのこるんだろうなと思う作品だった。没入して観ていたわけじゃないんだけど、私はあそこに出てきた女性どれになる可能性もあるなと思って観ていた。あのような設定の沈みゆく島で、大抵とりのこされるのは、老人と女性とその子どもであることが多い。NHKの「ふるさとの伝承」のDVD借りてきて観たりしていた人間なので、本当にあの設定には弱かった。しんどすぎる。

同じ状況に置かれたらきっと私は吹田さんの立ち位置でいる可能性が高そうだと思って見ていたけど、るみさんのようにどうすればいいのか考えて疲れはてる可能性もあるし、そこに大事な人がいたら今日子さんのようになっているかもしれない。そして2016年に気仙沼の話を作っていたとき、もしかすると現地の人は私を嬉野さんのように見ていたかもしれない。まったく本当にしんどい。

いい作品を見たら、私もがんばろうと思える場合が多いのだけど、もう自分にはこれから演劇をつくる必要ないのではないかと思う場合が、数年に一回あって、今回はまったくもうその状態になった。もちろん、その、あの終わらせ方で終わらせられるほど私は心強くないのと、興味の方向がさいごだけちょっと違うので、同じ状況のお話をつくるにしても、もっと別の方向にドラマを進めるだろうとは思うんだけど。でもとても重たくて、こんな演劇をいま作ろうとしている人がいるんだってだけで希望、というか、うん希望ではないんだけど、うまく言えないけど、本当に形にしてくれてありがとうございます、観てよかった、と思った。

高速バスに乗って、行きも帰りも締め切りが近かった映像の脚本を書きながら。帰りは2月の「山羊王子」のデザインも少ししつつ。初めて枝光にバスで行ってバスで帰ってきた。行きは時間にゆとりを持って行ったので、八幡のイオンにも初めて行き、そこでも作業をした。

それから、とても久しぶりにイオンの中にあったルピシア(紅茶屋さん)に入って、甘い香りのするルイボスティーとクリスマスのかわいいパッケージのお土産を買った。昔は天神の大丸にルピシアのカフェがあってとても好きだったのだけど、カフェはもうなくなってしまい、店頭販売だけになってしまった。とても残念だけど、家で飲めばいいからまあ、いいっちゃいいな。


モノクロラセンの『羅生門』


モノクロラセンの村井さんにお声かけいただき、発表会&意見交換会といったものに参加した。なかなか公演に行くことができず、モノクロラセンさんに行くのは今回初めて。演目は『羅生門』のリーディングで、その後ワールドカフェ形式で時間を計って感想や意見を伝えたりする時間という流れ。

演劇でこういうこころみは私にとってはとてもめずらしく、さらにこういうところでないと芥川作品に触れることもなかなかないので、久しぶりに羅生門のあの感じ、を体感できて非常に面白かった。村井さんの演劇に対する真面目さというのか、誠実であろうとする心意気がひしひしと伝わって、丁寧にものづくりをしていきたい団体なんだなと感じました。

自分も創作についての悩みは常にあって、「ラボ」的なことをしたいと思っていたので、どこかで少しまねしちゃうかもしれません。

夕方まで打ち合わせがあって、パピオパルでサンドイッチとドリンクバーのセットを注文したら、すごいボリュームのサンドイッチが出てきた。幸せな気持ちになれたので、また食べたい。


「インターネット」と演劇のこと


中学生の時に触れていた私にとっての「インターネット」の世界と、いま関わっている「演劇をつくる」コミュニティはなんだか似ているような気がする、というツイートをこの間した。

インターネットが大好きな子供だった。自分でホームページを作って、絵や文章を載せたりして、来てくれた人と交流したり、リンクを貼ってみたり、掲示板に書き込んだりして、2000年代に私が触れていたインターネットには幸せな世界が広がっていたと思う。自分をごまかしたり嘘をついたりする意味もあまりなかったし(きっともちろんいわゆる「ネカマ」さんなどいたのだろうが)そういった嘘やタテマエがどうでも良かった。

そして、そこに集っている人たちは、楽しんでいながらもとても真剣に活動に取り組んでいた。実際に会ったことがない相手が多いからこそ、自分を伝えるためにいろんなやりかたでコミュニケーションをとっていた気がする。

演劇もそうだなって思っている。やりたいことを叶えるために、緩やかなコミュニティから始まったものが、どんどん真剣になっていって、嘘とかついている意味がない状態になり、楽しく一つのものをつくっていこうという感じ。もちろん肉体はそこにあるし、みんなでつくる、というやり方は違うけれど、心の持ちようというのかな、そしてコミュニケーションの仕方も、似ている気がする。あのころの「インターネット」は今存在しないけど、その代わりになるものを自分は手に入れていたんだなあと思うと少し嬉しい気持ちになる。

高校生から大学生のはじめまで小説を書いていて、分厚い文庫3冊分くらいの量のお話をつくって、完結させたことがある。一話ずつ、書いたらタイトルをつけて、読みやすくレイアウトしてホームページに掲載していた。多分いま読んだら本当に死にたくなるレベルのひどさだと思うが、それでもその時の作りたい欲求だったり、それほど長い物語をとにかく終わらせることができた、という実感が今でも確かに残っている。かつて居場所を与えてくれたインターネットには本当に感謝しかない。


脱稿とモーターサイクル願望


あたらしい山羊王子の台本(おそらく最終稿)をみなさんにお渡ししての稽古。最近は毎回見学者がいるので、いろんな方に稽古場の空気を見てもらえて、とてもありがたいと思う。通して読み、きになったところを共有していく。前日の夜までさわっていて、他の仕事もしながら印刷して持っていったので、ヘトヘト&ドキドキで変な日本語ばかりしゃべってしまう日だった。すみません。たとえ話で、ふるいインターネットの話とか急にしてしまい、でも若い方には伝わらず、正しく歳をとっているなと実感する。

大橋の稽古場までは交通費がけっこうするので、じわっと途中まで自転車で行ったりして浮かせている。原付かバイクがあれば……10月に中型免許をとるぞ、なんて調子良いことを言っていたのだが、かなわぬ夢で終わりそう。原付だけでも買うかなあ。だれかくれないかなモーターサイクル。

昨日までの仕事をむりやり片付けたせいで、体がとてもバキバキだ。でも明日も打ち合わせがあったりして、できればそこで持って行きたいデザインもあるので、やって寝るしかないな。今夜は韃靼そば茶なんて飲んだりする。


レンジ調理に甘える秋


最近は食欲が復活してきたので、電子レンジをつかったレシピをいろいろと検索して、できるだけ火が通ったものを食べるようにしている。キャベツなどを蒸して、ポン酢と黒胡椒をかけたりすればとてもしっかり食べられるし、調子もいいような気がする。

レトルトの麻婆豆腐もレンジ調理ができることを知った。ときどきとっても食べたくなるけど、クックドゥや丸美屋でさえ、元気がないときは億劫になってしまう自分にはうれしい発見だった。フライパンを使わなくていいし、時間もかからないので、これこそライフハックだとおもう(ハックするほど複雑なライフでもないが)。ふくちゃんに、そうやって麻婆豆腐を食べたと言ったら「料理名のあるものを食べている!」と言われる。ひどいときは素材そのままだったり、さけるチーズとトマトジュースばかりだったもんね…。

寒くなってきたので、あったかいお豆腐がおいしい。お味噌汁もときどきつくる。冬に向けて、ただしく支度しているかんじがする。いろいろ落ち着いたら、おいしい水炊きがたべたいな。

カレンダーも変えてなかったり、停滞している部分はそのまま放置だったものを、稽古に行く前にちょっとずつ手を入れる。とめてしまっている仕事もあるのではやくかたづけねば。


山羊稽古4日目、焦り禁物


稽古がつづいている。今日は日中ぐったりしていたが、夕方には回復して無事に向かうことができた。はやくシーンを追加した新しい脚本をお渡ししたいと思っているが、今ブログをかけているので、明日には、できるだろう、きっと。

演技についての提案をしてくれたり、疑問を抱いたらどうなのか、変えた方がいいのか、と相談してくださる俳優さんばかりで、とてもありがたい。うまれた疑問に対して、共有すべきものが生まれて、理解が進む。今日は俳優さんが全員揃って、いろいろ試すことができたのでよかった。

台本もそうなのだけど、演出の方法というのが、なんどもやっているはずなのだが、本当に答えがないなと思う。答えがないから自分の描きたいシーンの目的を提示するしかない。ただ、心なんてあやつれないものを描くわけだから、役としてそれぞれの俳優さんがどうしたいか、どう動きたいか引き出したり、内側にあるものに触れられたらいいな、とは思っている。今回はより稽古日数が限られている、からこそ、大事な部分だけは焦らないようにしたい。

「エモい」という言葉を最近覚えたので、そう、エモさを見つけて形にしたいんだろうな。「切実さ」とも言える。でも切実、は自分本位なので、あるひとの切実、を見た別の誰かの心を揺がせるほどのもの、となると、やはりエモいという言葉は便利だ。


贈りものとプロジェクター復活


色々なところへチラシを置いてもらいに出かけて、某所へご挨拶に行ったら、職員さんから呼び止められた。渡すものがあるから、と言われ、なんだろうとドキドキしたが、お世話になって遠くへ行かれた方が「好きと言っていたから」と、その方に預けていたらしい、ある作家さんのポストカードを手渡された。原画を買ってしまうほど好きな作家さんで、いつかそんな話をしたのかな、それを覚えていただいていたようで、ときを超えて素敵なプレゼントをもらってしまった。とてもとってもうれしく、かつ混乱してしまい、えっ、えっ、ほんとに、と聞き直してしまった。はずかしい。でも、続けていけるぞ、がんばろう、と思った。

また深夜の作業が増えている。身体を思うようにコントロールできないので、くたばってしまう前にやらなきゃ、という感じでそういったサイクルに陥っている。

やる気を出すツールとしてしまっていたプロジェクターをふっかつさせて、何度も観ているすきなDVDを壁いっぱいに映しながらやっていて、これはなかなかいい方法みたいだ。内容は知っているので頑張って見る必要はないけど居心地がいい感じ。お酒を飲んでいたらちょっとむずかしい日が続いているので、いろいろな紅茶を日替わりで飲んでいる。寒くなってきたんだな。