戯曲を書くことについていま考えていること


このように文章を書くときに、戯曲を書くときの脳みそを使えるのかというと、それはむずかしいような気がする。自分が文章を書く時に使うのはひたすらに語りであって、そこに対話があるかというと違うのではないか。私は一方的に紙、あるいはMacBookAirに向かっていて、その先にいる読み手のことを考えているかというと、ほとんど考えていない。とくにここに書いているのは、どちらかというと思考の整理みたいなものだから、基本的に対話を期待していない。

これが戯曲になったとき、登場人物同士は会話をしなければならないから、割と直接的なコミュニケーションをしなければならなくなる。さらに、それを使ってお客さんとコミュニケーションしてしまう。(もちろん無反応の場合もあるけど。)

よのなかの劇作家たちはどうやって戯曲を書いているのだろう。気になる。みんなどうやって、どうして、どんなはじまりで戯曲を書くんだろう。

もう一昨年のことになってしまうが、広島・アステールプラザの演劇学校で劇作家コースというものに通っていた。今まで好きで書いてはいたけれど人に学んだことはなかったから、しかも講師が喜安浩平先生ということで、ドキドキしながら通っていた。

ツイッターで呟いたり、何人かの人にはそこであったことを喋ったりもしたが、とても有意義な約半年間だった。なによりも自分が、戯曲を書くのが得意ではないのに書いていることがよくわかった。とにかく苦戦していたし、得意不得意で戯曲が書けるわけでもないのではないか、ということも感じた。

自分には「こうすればうまくいく!」ようなこともないとわかった。ストーリーづくりの本などを読めば、こうやってこうすればある程度うまくいく「型」があることがだいたいどの本にも書いてある。登場人物に●●させれば面白い作品を作れる。確かにそうだと思う。でも自分は「うんうん!おっけー!」と納得して戯曲を作る作業に入ることはできなかった。

もちろん型は無意識に使っているのだろうが、おそらく大量収集したあとに無意識まで落とさないと私は使えない。(技術的なところもあると思う)だからつまり今のところ、調べ学習をした後で熟考して、絶望して、書き直すしかない。

で、「面白い」作品を作りたいかというと、自分が書いているものは「面白さ」を売りにしてないような気がするし、すごいギミックなんてこさえられないし、そこにモチベーションは湧かない。

私が書きたい、やりたいのは、そっちではないとわかった。そしてそのために、「めちゃめちゃ考えなければならない」ということがわかったのが一番の収穫だと思う。

去年ちょうど同じ時期に、「まちがっても賞を狙ったり、面白くしようとしてうまく書くもんじゃないよ」と言ってくれる俳優がふたりいた。もちろん賞は、続けることができるのであればいつか死ぬまでにひとつくらいは頂けたらうれしいと思う。でもそのひとたちは「そういうことのためにやっているんじゃない」、を私よりも早い段階でわかっていて、言語化されていて、ありがたいなと思う。

さらに昨年の秋に再び喜安さんにお会いしたときの会話で、自分がなんのために演劇をするのかをけっこうしっかりと確認することができて、本当にありがとうございます。(その日、もみじ饅頭を買って新幹線で戻り、その足で稽古場に行ったら外は台風なのにもかかわらず人が集まっていた。)

学生の時にやった作品で、終演後お客さんからもらったアンケートの裏面に、その方が持っている複雑な家庭環境のことが書き連ねてあり、最後にありがとうございました、と書いてあった。作品を観て、なにかぴんと来たのかもしれない。演劇を、誰かのためにやるわけでもないけれど、演劇はコミュニケーションなので、ときどきお客さんからもらえる心を打ち抜くような返答が、つづけようとするひとつの理由ではあると思います。