カムパネルラと幸福な王子

「銀河鉄道の夜」のアニメ版を小さい頃何度もなんども見ていた記憶がある。特に夏休みに、アニメスペシャルでnhkで毎年やっていた放送を見ていたし、かつビデオに録画したものもときどき見直していた。とても静かで淡々とでも見逃せないまま進むお話、その最後に強烈な演出のラストシーンが心をつかんで話さなかった。

大学生になってはじめて長編の演劇にどっぷり参加した作品が、別役実の「ジョバンニの父への旅」だった。本読みの段階からとても嬉しくてたまらず、その思いだけでカムパネルラ役をもらった。下手くそな演技でいま観たらきっと卒倒してしまうだろう、でも「はじめて」というのはとても印象的で、演劇を作る上で「こんな思いをすることになるとは」という感情がたくさん生まれた本当に大事な時間だった。そこには本当にすてきな、今でも活躍している先輩がたや同級生、(その経験からお互いを知ることができた)気心の知れた友人、そして岩井先生がいて、人生を振り返るととても大事なできごとだったと何度でも思える。

と、そういったことを経験して大人になり、再びアニメの銀河鉄道を観たとき、脚本が別役実だったと知り勝手に悲鳴をあげたりしたことがある。私は本当に何も知らずに演劇をしていたし、アニメをみていた。でも意外と、「元々好きだったものが演劇と繋がっていたことに気づく」というシーンには結構なんども出会っていたりして、そういう「つながったと気づく瞬間」みたいなものを、いつのまにか勝手に自分で生み出しておきながら、勝手に感動したりして生きている。

現に、宮沢賢治に繋がる人はあまりにも多い。でも、なんといったらいいのかわからないけど、私の思っているつながりは、ただ単に宮沢賢治や銀河鉄道の夜だけで繋がっているというわけでもないと思う。例えばそれはカムパネルラと「幸福な王子」について延々と考えたりするようなことだ。カムパネルラとジョバンニ、王子とツバメの関係性を考えて、カムパネルラがジョバンニを鉄道から降ろしたのは、旅人であるツバメを解放してひとりで本当の幸いを背負ったんじゃないか、そのたびに「僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」、と云うジョバンニの言葉と、溶鉱炉で溶けてすずの心臓だけ残った王子のことを思い出す。あるいは、ジョバンニ自身がツバメとして「王子と共に死ぬ」ことを拒否したのか、などと、延々とやってしまう。その思考はとてもたのしくて同時に少し辛い。

好き勝手に長々と書いてしまった。ブログだからゆるしてほしい。なぜ今かというと、最近あらたにそういった自分のルーツにつながる出会いのようなものが今近くにあることを知り、もうすぐその人に会えそうなのでとても嬉しいのだ。かつ、今書いている話にもとても深く繋がっている気がしていて、早くその人に会いたい、会って話を聴くためにもっと学んでおきたい、とも思っている。