大きなアセビと暮らす

7月末に買った大きなアセビの枝が、いまだに部屋に存在していて、驚いている。太い枝ものは長持ちするよとは言われていたが、少しずつ葉が落ち最初ほどの元気はないものの、まさかここまで続くとは思っていなかった。アセビは食べたら毒があるらしく、買って来てその情報を知ったときは、「この葉っぱを全てミキサーにかけてスムージーにすると」、という結構ヤバめの想像などをして遊んだ気がする。木があるだけでホッとするので、おかげさまでそんな気持ちは起こさずにすんでいる。

今週は結果的に大きな動きのあった一週間だったわけだが、にしては、淡々と日々を過ごしていると思う。いわゆる「第三者的な目が上にあって自分を見下ろしている感覚」は小さい頃からときどきあったけれど、今はまさにそういう感じで、次にわたしがどう出るのかを見ている。そうすることで色々な考えなければならないことから逃げているのかもしれない。

ある劇作家とお昼ご飯を食べていた時、その人がいま書きはじめてしまった小説の話になった。人情芝居を書くのが上手い人(だと勝手に思っている)なのだが、その人はイタコタイプの作家で、書いていたらいつのまにか物語が進んでいるという。これは少し自分にも似ていると思う。それで、いつの間にか紡がれた話に、後から感動して「そんなことが起きてしまうのか」と自分で作った作品に落涙するのだという。そういえばこれも自分に似ている。

作家が作品に自分で感動してしまうなんてエゴがすぎるのかもしれない。しかし、自分のグッと来るレベルを超えていないものを外に出すなんてそっちのほうがお客さんに失礼だよななどと、サイゼリヤのカプチーノを飲みながら思った。むしろその「自分で感動しちゃう」ことで、淡々とした生活が救われるかもしれないと少しばかり思っている自分はかなり面倒な人間だと思う。