どっちもどっちの違和感

ニュースで、十代の女性に二十歳の公務員がわいせつな行為をしたという報道があって、それを一緒に見ていた人が「この人(わいせつ行為をした方の人)は大丈夫だろうか、将来これから」と言っていて、確かな違和感を感じ、「なぜそっちを心配するの」とつい聞いてしまった。報道があるほどのトラブルだったはずなのに、十代の女性よりもわざわざわいせつ行為をしてしまった男性の将来を心配してしまうのは、一体どうしてなのだろう。女性側の精神的負担は想像しにくいのかなと。

「こういうときって、どっちもどっちのことが多いからさ、案外女性の方がしかけてたりして」という返事で終わった。確かにそういうことも、あるかもしれない。ただ、限られた情報しか知らない上で「どっちもどっち」ならば、どっちもどっちなりに「この二人は」とでもなんとでも言えるはずだ。女性だけどうして置き去りになるのか?まだ十代なのに。でも確かに、むかし自分もそういう感覚になっていたころがあったから、一層違和感が強く残った。これってどういうことなんだろう。

本当のことなんて誰もわかりっこないのに、「本質を見る」なんて言いながら自分の頭にあることだけで真実を「捏造」しているんじゃないのか。

 

便利な言葉で状況を定着させることによって思考を停止してしまうことがあるよな、ということも、最近少し考えている。たとえばだけど、メンヘラ、こじらせ、あたりのこと。こじらせている、なんていうのはすごく便利だなと思っていて、それゆえにどういう状態なのかがわからなくなる。過去をふりかえれば、「こじらせ」てたし「メンヘラ」だったなと思うのだけど、過去は過去でせいいっぱいやっていたつもりでもあるので、バカにしてしまうのもよくないなと最近になって思い始めた。

 

新潮45の報道を聞いて、編集者は違えど「考える人」の大ファンなので同じ会社で起こってしまったことに心底がっかりした。だからこそ感覚が敏感になっているのかもしれないな。いやだなあ。

そういう違和感と向き合えば、演劇のひとつにもなろうな。ただし中途半端だと自分が苦しくなってしまうので、やるなら本当に、ちゃんとやらなきゃいけないって思う。