寂しさとか安心とかふわふわしたものもの

ボヘミアンラプソディーを観て、「よかったんだけど自分の人生を省みてしんどくなった」という話をしていて、私はこれまでにじぶんの寂しさをコントロールできなくて色々なことをダメにしてきたからだろうなあ、と思った。比べようなんて思っていなくてもいつのまにか何かを比較してしまい、じぶんはだれにも愛されていないなとか、ひとりぼっちだなとか、そういうことを感じてしまうととてもさみしくなってしまい、何かをだめにしかける、あるいは本当にだめにしてしまう。能動的ひとりぼっちはこわくないし好きなんだけど、無意識にだれかとつながっていたい、わかりあえたらいいなと思いたい瞬間は確かにあって、でもわたしとだれかはちがうので、絶対にわかりあえるなんてありえないのにね。

なんだかちょっと不調の友人を見てるとどうにかして助けたい、できることだったらなんでもやると思ってしまうけど、それはそれで相手の負担にもなってしまうんだろうなあなんて考えて、やきもきとじたばたとしている。わたしがだれかに何かできたところで、互いの心の穴は完全にはうまらない、そもそもそれを穴という言葉にした時点で埋まりきることはない。傷を負った後に治っても傷を負った事実は消えないようにねって、なにを例えにして何を言いたいのかもよくわからないけど、こういうことを考えてしまうときは早くたくさんねたほうがいいことはたしかだ。まあ、こうした薄暗いところにいる気持ちが生まれてくれるおかげで、演劇は作られるとも思うけど。

季節が変わって、桜が咲いて散ったのに、本当に春がきたのかよくわからないような気持ちで、冬が終わったら春が来るのもどうしてなのかよくわからないような気持ちで、勝手に時間が過ぎていくことに心が追いついていないとなかなかしんどくなるよね。でも元気なときは急になにかしら作ったり進んだり、どうしてできたんだっけと思うようなことをしているから、まあなんとかなるんじゃないですかね、そのうち。

こないだツイッターで書いたんだけど、最近私は「安心」が怖くて、安心を手に入れるための行為から逃げるために永遠に寝ていたいみたいな気持ちになったりもする。それはしかし別の安心を求めているのかもしれないし、でも、そういうわけじゃなくってさあ、安心という状態にはどんなメリットがあるんだろうって。たとえば私は老後の「安心」のために国民年金基金に入って、今年は増口もした。ひとりで生きる可能性が高いし、節税にもなるからいいんだけど、これもなんだか変な話だなと思う。だって毎月7万円もらうために4万円はらうんだぜ。もし65歳になるときハイパーインフレにでもなってたらマジで意味がない。使った方がまし。まあ節税になるからいいんだけど…いや…本当にいいのか…?もういいや……。