一段ずつ進んでいくこと

階段を飛ばして進みたいことがしばしばある。それはたとえ話で、飛ばしたいのはいろんな作業だったり、作るものだったり、やりとりだったり。日常で作る料理だったら、自分しか食べないものなので「何か」飛ばしてしまっても別にいい。しかしこれがお客さんがいる演劇の場合は、あまりに飛ばしすぎるとお客さんを置いていくことにつながる。結果、「よくわかんなかった」と思われたり、こちらが意図する効果に気づいてもらえないまま、ピンとこないまま終わってしまうこともあるかもしれないので、一段づつ登っていく意識、みたいなものはとても大事だと思う。しかし、たとえば三段飛ばしで進み、終わりまで来てしまった後で飛んでしまったところに戻り、そこの階段を「一段ずつ」に作り直すのは、けっこう骨の折れる作業になる。

よくわからないと言われた時によく使う文句として「お客さんの解釈に委ねるべきだし」と急に感覚の責任をお客さんに持たせたりする。そうやってなんとかにげおおせようとする。が、結果それは自分にとってさいわいな結果にはならないとおもう。かなしい。時間がありあまるほどあれば、その一段作りは、たとえそれが千分の一のほんの小さな一段だったとしても、ものすごい飛躍に繋がる可能性も秘めている。…のだけど、演劇は必ず公演日というリミットがある。

そして、飛ばしてしまっていることに気づかないまま進んでしまうことは大いにある。戯曲が長くなればなるほどあとから読み直して「おいいいい!」となることだってあるし、気付けるほどの大きな間違いはもちろん訂正できるが、何故か座組みの全員が上演まで気づかないようなエラーがある可能性も。結果みんなで、いつのまにかお客さんを置いていってしまう。し、そういうものは上演後も大抵表沙汰にならず「ふわっ」と過ぎ去り、おおごとだという認識につながらない。気がする。

「気づけない」ゾーンに入ってしまうのは、「ゴリ押し」ができる空間だというのも一つあると思う。狭いハコなら、そこまで気にならなかったことが、広い会場になって同じことをされると急に「あれ?」と気づいたり。役者の力量とか、お客さんとの近さによる共感性のレベルによって、作品の印象は大きく異なる。稽古場もそうで、演出家至上主義になりすぎると、気づくとか考えるとかいうポイントよりも自分の目の前の仕事で精一杯になってしまって、色々気づけなくなるのではないかなと思ったりする。学生演劇とかでたまにある「わたしたちがんばったよね!」という、作品を最優先としない結束になっているチームづくり、みたいなやつだ。

クリエイティブは「いかに気づくか」なんだなと思いながらいろいろものを作っているけど、飛ばした後にちゃんとふりかえってみるというのは大事だと思う。もちろん、「置いていく」とか「連れていく」というやりかたは、作品次第で手法がかわるんだけど。

昨日唐十郎の戯曲を声に出して読んでみて、戯曲の中のコミュニケーションはハチャメチャなのにお客さんとのコミュニケーションはぜつみょうにとれていると感じて、こういう連れて行き方もあるのか、と感動したばかりだし。

気づけることは、まだまだたくさんあるんだろうな。少なくとも、自分が納得する作品をつくるまでの。納得して生きていくための。