『劇的世界論』に絶大なる絶望

1984年に書かれた本『劇的世界論』(工藤隆・著)を読んだら、今えんげきや世の中のことで議論したり悩んでいること、社会的な問題・状態が「現代のこと」として完全に書かれていてショックをうける。だって、書かれたの35年前だよ。地下鉄サリン事件が95年だから、それからさらに11年も前。

何も変わっていないし、これからも変わらない、むしろ酷くなってる部分もある。人間が歴史をいくら覚えたってゼロを繰り返すだけなんだって絶望。その絶望感が強い思い込みと合致すればサリンなんてまいちゃう可能性だってある。どうせ自分もまた死ぬ(繰り返す)のなら、多少の犠牲があってもこの後の社会を変える、人類を救済するためにってさ。

いや、35年とかいうスケールじゃなくて、これこそが古代から、ずっとずーっと、続いている奪い合いの人間社会なんだなということをじっくりと感じてしまったのだった。信じたくないけど、この立場にいると。江戸時代、芝居をやっているひとたちはいわゆる「非人」だった。それより前にも、政治的に利用され、捨て駒にされつづけてきた。この階級がずっと、ずーーっと、つづいているわけだ。はー、かなしい。そして演劇は何千年も前から非生産的で、時間の無駄で、生活に不要なものなのだ。はーー。かなしい。

なぜこんなに絶望的に書き出してしまったかというと、ちょうどこの間友達とランチをしてた時にオウムの話をしていたからなのだった。「(新興)宗教はヤバイ」のなにが「ヤバさ」なのかを知らないと、まさかってところでこの嫌なタイプの「繰り返し」に巻き込まれる可能性がある。社会がそうさせる可能性がある。わたしにはその絶大な不安があるから、演劇をしたり考えたりし続けようと思うのかもしれない。オウムの信者がサリンを撒いたのと、フロイトが「無意識」を発見したことは、まったく違うようで、社会が感じるあやうさでいえば結構近いことだとも思う。

それにしたってひどい思いをした。まだ50ページくらいしか読んでないのに辛すぎる。。と、同時に、「劇的なるもの」は「社会的潜在意識」を「認識」する役割がある、とも書いてあったので、読み進めてみる。しかし2019年の読者にも考えさせるすごい本だ。