雲とベテルギウス

自分の頭で考える時間が欲しかった、という理由で、ながいこと通信を拒絶していた相手に、今日やっと、積極的に、また話してみてもいいかもしれないと思えた。和解、というと気持ち悪いが、自分が何を考えているか、すくなくとも20代前半の自分よりは知っていて、どうなっていきたいのかも、この2年ほどで少しはものを言えるようになってきたのではないか。おなじ話をしているつもりが、まったくずれた会話になっていることがあったとして、そういう時に若い時はあきらめてそのまま時が過ぎるのを待ったが、今はちょっとまってほしい、少し戻ってもいいかな、と言えるようになった。

「流されるな」、という表現があるけど、流れてしまう側の人が流れていることに気づくのは、いつも「流されたあと」だ。その時間を一歩一歩、どちらも流さずに自然と歩める人もいれば、そうでもない相手もいて、そういうとき、たとえば私は空を見て、風が強くてすごく早く流れていく雲の話をしているのに、相手は今にも消えそうなベテルギウスの話をしていたりする。それで、ベテルギウスの明滅についてあまりに真剣に、あるいはロマンに浸り酔いしれた意見を聞いているうちに、いつのまにか自分が天気の話をしていたことを忘れる。

一番初めはただ話し相手が欲しかっただけだから、もしかするとその時はいつのまにか星の話をしていてもうれしかったのかもしれない。でも、だんだん天気の話を聞いてもらえていないことが苦しくなっていた。そうやって意図的・あるいは無意識にすりかえられていた話があまりにもたくさんあって、腹を立てたり悲しんだりしていた気がする。そして、話をもどそうと頑張っても、すでに複雑な状況に対して、急にストレートに「つまりこうでしょ、簡単なことなんだから」と決めつけられ、私は私の感情を「決めた」相手にとって、ただのプログラミングされた3Dの人形なんだなあと心の底から傷ついたりしていた。それでも寂しさとか心もとなさとか自信のなさによって、話し相手がいる、という状況にだけすがっていた。対等だと思いたかったが、対等とは呼べなかった。

ところで、もしかしたらベテルギウスはもうとっくの数百年前にスーパーノヴァしてしまっているのかもしれないし、いやいやまだまだ、と、再び明るさをとりもどし光りつづけているのかもしれないが、観測されないものは「そもそも存在がない」状態のままで、つまり本来天気の話もベテルギウスの話も対等に観測すべき話題なんだろうなあとは思う。ただ、それを提案するには立場が違いすぎていて、相手が思いもしないほど私には力がなかった。今もどうかはわからないけど、いや、今はちがうと思いたい。だから、余裕ができたらどっちの話もしてみたいねーなんて、まあ、そんなに簡単に叶いはしないだろうけど。