つよくあることは最優先事項じゃないな


つよくならねばならない、勇気がひつようだ、と2016年くらいにとても思っていた。なぜかといえば、色々な人と意見を交わす必要があって、自分にとってその時間がとても大事だと感じていて、その中には結構しっかりとものを言う人もいたから、たとえ言い合い、と言う名の議論が活発に起きたとしても、自分の考えをきちんと持ってひるまずに答えられるようにならなければと、結構強く思っていた

高校生くらいまでものすごく緊張しがちな性格で、さらにとっさに言葉が出てこない人だったので、授業で当てられることが本当に苦痛だった、当てられて、すぐ答えが出てこなくて、正解しか言っちゃだめで、考えていたらいつのまにか「じゃあ誰々」と別の人が当てられていて、私は答えを見つけたのに言えない、なんてことがとてもとてもとてもとても多かった。

大学に入ってからは、比較的に自由にものを言える環境に変わったので、「自分が強者になれるのでは」という錯覚をしたりもした。社会的に強い人間になれるのかもという妄想をしたし、自分がもっと変われば!みたいなことも思っていた。大事な時間ではあったけど、すりきれていく感じもした。就職した先で営業をして、月に何百万とか数字をあげて、強くなるぞ、とも思っていた。辛くて、本当に未来が見えなかったから、自分がとにかく強くならないといけない、とがちがちになってしまうときもあった。

思えば、小学生のときから発表で膝がガクガク震えるほどのあがり症だったし、すぐ不安になっていたし、いまだに人前に出たりはじめての場所で何人かの前で話すだけでとてもどきどきする。そういうのはおかしいと思ってたのだけど、それもありだな、と今日やったダンスのワークショップのおためしで思った。

作ったダンスを発表する時、どこにも答えはないのに・5人しかいないのに・失敗しても特に困ることもないのに、その場は謎の緊張感に包まれていた。面白いくらいに謎で、緊張の根拠はただの空気で、でも簡単にそういうことで人がどきどきしてしまうことがとても興味深くて、ばかみたいで、なんでか魅惑的だった。それに、みんなこんなことで緊張するんだなってわかった。思い出すだけでふふふ、となってしまう(プログラム自体もすごくおもしろかったしまだまだ色々考えていけそうでうきうきする時間だった)

それで、私はすぐドキドキしてしまうし、臆病だし、でもそれでいいのかもと思った。世の中にはきっと私だけじゃなくて、たくさんドキドキしてる人、いるんだろうなとも思った。だから、同じようにドキドキしたり、バクバクしたり、人前に出るのがつらかったり、自分に自信が持てなかったりする人も、その状態を否定せずにたのしくやっていけるような、そういう経験ができたりすると少しは楽に生きていけるんじゃないかなんてことも考えた。考えたところで、つまり「こころのつよさ」は強要するものではないなと思った。根性、とか、いう時代でもないし。

自分を鼓舞するのは、強さに触れた時だ、と思っていたけど、好きなもの、心を動かされたものへの情熱がおおきいんじゃないか、それがいちばん今の所しっくりくるような気がする。好きなものは好きで、考えたいものは考えたくて、それが誰かの役に立ったりするととっても嬉しい。そうやっていきていく中でみつかる自分の矜持こそが強みと呼べるものなのかもなって。(ここでいう「強さ」と「強み」はちがう)

それで、自分の表現の先には、私と同じように自信がなかったり不安な気持ちになったり、ちょっとしたことですぐにどきどきしてしまう人が、何か共感するものを持てたり、少しでも心に火を灯せるようなものだったらいいのかも、なんて思ったり、した。

でも、勇気という言葉は好きだな。空気とおなじように目に見えないところもいいし、ゆうきりんりんっていうリズムはかわいい。


ウインナーコーヒーについて


ウインナーコーヒーが好き、ということに、薄々気づいてはいたんだけど、そんなにいつでも売っているものではないからあまり関わりをもたないようにしていた。年明けに地元のドトールでちょうど良いクリームの割合のウインナーコーヒーを飲んだ記憶から、先日新天町のドトールで注文しようとしたらメニューになく、聞いても「うちの店にはないです」と言われて心がぽっかり空いてしまい、それからその穴を埋めるべく近所をさまようもベストなものが見つからず、どうしてこんなにウインナーコーヒーのことばかり考えなければいけないんだと悶々としている。

ちなみにちょうど良いクリームの割合、というのは、「スタバのフラペチーノのようなぐるぐるとのせるソフトクリーム形状」ではなく、「ティースプーンに山盛り1杯くらいのあわ立てたクリームが乗っていて、少し飲めば下にコーヒーが見える」、ぐらいが私にとっての適切なクリーム量だ。飲んでも飲んでもクリームがなくならないものは少しつらく、コーヒーを飲んでいる気にならない。

そんなに飲みたいのなら生クリームを買って作ればいい、と思うけど、実際ウインナーコーヒーのためだけにホイップしてどうするんだとも思うし、そのためにケーキなど作るのは何か負けた気がする。さらに家にはハンドミキサーがないから、泡立てるのも一苦労、どうやらレモン汁などをいれて(調べた)作るようで、色々とにかくめんどうだ。

ただ、さらに調べたところによると生クリームはあわ立てた後に冷凍が可能らしい。つまり絞り出して冷凍したクリームを凍ったまま熱いコーヒーの上にのせてそれが溶けるのを楽しみながら飲むという最高な遊びができることは分かった。しかし、ケーキ作りの後に余らせたわけでもなく「ウインナーコーヒー」ただそれだけのために大量にクリームをあわ立て、絞り出し、冷凍するスペースを用意するのは独身の小さな冷蔵庫しか持たない私にとってもはや…もはや…と落ち込む。

10代の時に色々なコーヒーの飲み方の載った本をどこかで手に入れ、アイリッシュコーヒーやマシュマロコーヒーなどと一緒に並んでいたウインナーコーヒーが、長い年月を超えてここまで人を悩ませるほど扉を叩いてくるとは思わなかった。生クリームは、おいしいが、面倒臭い。とても…。


欲望の部屋


夢の中に出てくる自分の部屋は、だいたいいつも、ワンルームではなくもう一部屋あって、本棚が異様に大きくなっている。そして猫や犬と暮らしている。

そこが自分の部屋だと信じて疑わないから、起きた時にすこしがっかりする。

今暮らしている部屋には、基本的に満足してるし、良い部屋だと思う。のだけど、無意識に理想を投影しているんだろうな。もう一部屋あって、本棚や収納がもっと大きく(今の本棚も小さくはないと思うけど)下手したら壁一面にあって、猫や犬がいる部屋。

いつかそんなところで暮らせる日がくるのだろうか。まだ当分、先だと思う。生きているうちに叶うかもわからない。

今のペースで生きていると一生はとても短いように感じる。もっとたっぷり時間があれば、理想を一つひとつ叶えることもできるのだろうけど、全て叶うことはないのだろうなと思う。

同じ月にハワイと函館に行こうと行った親友は、もしかするとそれを知っていて、その事実に楽しく立ち向かっているのかもしれない。いやいやそれは無理だよ、物事には限度があるよ、と言っちゃったけど、そうやって願いを叶えるために動けてしまうことが、本当はとても羨ましいのだよ。


戯曲を書くことについていま考えていること


このように文章を書くときに、戯曲を書くときの脳みそを使えるのかというと、それはむずかしいような気がする。自分が文章を書く時に使うのはひたすらに語りであって、そこに対話があるかというと違うのではないか。私は一方的に紙、あるいはMacBookAirに向かっていて、その先にいる読み手のことを考えているかというと、ほとんど考えていない。とくにここに書いているのは、どちらかというと思考の整理みたいなものだから、基本的に対話を期待していない。

これが戯曲になったとき、登場人物同士は会話をしなければならないから、割と直接的なコミュニケーションをしなければならなくなる。さらに、それを使ってお客さんとコミュニケーションしてしまう。(もちろん無反応の場合もあるけど。)

よのなかの劇作家たちはどうやって戯曲を書いているのだろう。気になる。みんなどうやって、どうして、どんなはじまりで戯曲を書くんだろう。

もう一昨年のことになってしまうが、広島・アステールプラザの演劇学校で劇作家コースというものに通っていた。今まで好きで書いてはいたけれど人に学んだことはなかったから、しかも講師が喜安浩平先生ということで、ドキドキしながら通っていた。

ツイッターで呟いたり、何人かの人にはそこであったことを喋ったりもしたが、とても有意義な約半年間だった。なによりも自分が、戯曲を書くのが得意ではないのに書いていることがよくわかった。とにかく苦戦していたし、得意不得意で戯曲が書けるわけでもないのではないか、ということも感じた。

自分には「こうすればうまくいく!」ようなこともないとわかった。ストーリーづくりの本などを読めば、こうやってこうすればある程度うまくいく「型」があることがだいたいどの本にも書いてある。登場人物に●●させれば面白い作品を作れる。確かにそうだと思う。でも自分は「うんうん!おっけー!」と納得して戯曲を作る作業に入ることはできなかった。

もちろん型は無意識に使っているのだろうが、おそらく大量収集したあとに無意識まで落とさないと私は使えない。(技術的なところもあると思う)だからつまり今のところ、調べ学習をした後で熟考して、絶望して、書き直すしかない。

で、「面白い」作品を作りたいかというと、自分が書いているものは「面白さ」を売りにしてないような気がするし、すごいギミックなんてこさえられないし、そこにモチベーションは湧かない。

私が書きたい、やりたいのは、そっちではないとわかった。そしてそのために、「めちゃめちゃ考えなければならない」ということがわかったのが一番の収穫だと思う。

去年ちょうど同じ時期に、「まちがっても賞を狙ったり、面白くしようとしてうまく書くもんじゃないよ」と言ってくれる俳優がふたりいた。もちろん賞は、続けることができるのであればいつか死ぬまでにひとつくらいは頂けたらうれしいと思う。でもそのひとたちは「そういうことのためにやっているんじゃない」、を私よりも早い段階でわかっていて、言語化されていて、ありがたいなと思う。

さらに昨年の秋に再び喜安さんにお会いしたときの会話で、自分がなんのために演劇をするのかをけっこうしっかりと確認することができて、本当にありがとうございます。(その日、もみじ饅頭を買って新幹線で戻り、その足で稽古場に行ったら外は台風なのにもかかわらず人が集まっていた。)

学生の時にやった作品で、終演後お客さんからもらったアンケートの裏面に、その方が持っている複雑な家庭環境のことが書き連ねてあり、最後にありがとうございました、と書いてあった。作品を観て、なにかぴんと来たのかもしれない。演劇を、誰かのためにやるわけでもないけれど、演劇はコミュニケーションなので、ときどきお客さんからもらえる心を打ち抜くような返答が、つづけようとするひとつの理由ではあると思います。


すうがくぎらい


きょうの仕事で、情報の整理・種類分けすることが致命的に苦手ということがわかった。具体的な作業としては、「ゼロから表をつくる」というのがすごく、できなくて、すこし落ち込む。

文系理系でタイプを分けるのも時代錯誤なのかもしれないけれど、やっぱりどっちかというと自分は文系だと思う。小学生の時に父親に算数を習おうとして、突然「xを代入する」、というおそろしい呪文を教わったのだけど、エックスなんて、あまりにも日常になくて理解できなかった。もしx=1、が、りんご=1だったらよかったのか、いや、りんごは数えられるし、いや数えられた方がいいのか、など、無限に悩む。

12りんご+4=64 は、りんご=5

こうしてしまうと私は一体何をどうしてりんごに足したり引いたりしているんだろうと悩むから、やっぱりxの代わりはせめてyとかzなのだけど、xにくらべてyやzに親近感が湧くかというと、わかないよね…。


私はここに居ていいんでしょうかね


ある街で仕事を終えて、ひっそりとした個人経営のカフェでコーヒーを飲んで、さて帰ろうと駅に向かって歩いていたとき、知らないおばあさんから突然声をかけられた。

よく聞き取れずに近づいて「なんですか?」と聴くと、「私はここに居ていいんでしょうかね」と言われた。

熊本の、どこか、都会ではないけれど広い道路のあるまちだったと思う。周りに人はおらず、私はおばあさんを目の前にして何秒か固まった。

すぐに、おばあさんより若い女性がやってきておばあさんを連れて行ってしまった。私はおばあさんに、小さい声で「いいと思います」と返したけど、そのやりとりがなんともえんげきみたいで、思い切って言い返せなかったし、なんとなくおばあさんの反応を見ることもできなかった。

一年くらい前のことなのに、ときどき思い出す。元気にしているかな、もっと大きい声で言えばよかったなって思う。


すっ、と思いつくようになりたい


今年はできるだけさらっとアウトプットをしていこうと思う。特別な理由はないけど、考えないよりは何かを考えて手を動かしている時間が増えた方がいいと思うから。頭を使っている時間を増やして、もっと、スッといろいろ思いつけるようになりたい。すっと思いつくものがいいものとは限らないけど。

あと関係ないけど、すっとした役者になりたい。すっとした役者と会いたい。スッとしている人は立っているだけでいい。うらやましいなと思う。

今日駐車場で女の子がスキップしていくのを見かけた。あんまり軽々といってしまうので真似してみたかったが、今は腰がはちゃめちゃに痛くて、ちょっとむりだった。はやく腰治るといいな。


何か書きたいときに書きます


blogをずっとほったらかしにしていて、書きたいことはTwitterに書いていたのだけど、これはTwitterには書いてはいけないのでは、ということが度々あったため(書いてはいけないことなどきっとないのだけど)こちらを復活させてみました。

過去の自分の日記は読むと辛くて、いつものことだけど全部消し(正確には下書きの状態にした)ました。今回も続くかどうかわからないけど、無理して書かずに何か書きたいことが見つかったら、こっそり書く場所として使おうと思っています。