どっちもどっちの違和感


ニュースで、十代の女性に二十歳の公務員がわいせつな行為をしたという報道があって、それを一緒に見ていた人が「この人(わいせつ行為をした方の人)は大丈夫だろうか、将来これから」と言っていて、確かな違和感を感じ、「なぜそっちを心配するの」とつい聞いてしまった。報道があるほどのトラブルだったはずなのに、十代の女性よりもわざわざわいせつ行為をしてしまった男性の将来を心配してしまうのは、一体どうしてなのだろう。女性側の精神的負担は想像しにくいのかなと。

「こういうときって、どっちもどっちのことが多いからさ、案外女性の方がしかけてたりして」という返事で終わった。確かにそういうことも、あるかもしれない。ただ、限られた情報しか知らない上で「どっちもどっち」ならば、どっちもどっちなりに「この二人は」とでもなんとでも言えるはずだ。女性だけどうして置き去りになるのか?まだ十代なのに。でも確かに、むかし自分もそういう感覚になっていたころがあったから、一層違和感が強く残った。これってどういうことなんだろう。

本当のことなんて誰もわかりっこないのに、「本質を見る」なんて言いながら自分の頭にあることだけで真実を「捏造」しているんじゃないのか。

 

便利な言葉で状況を定着させることによって思考を停止してしまうことがあるよな、ということも、最近少し考えている。たとえばだけど、メンヘラ、こじらせ、あたりのこと。こじらせている、なんていうのはすごく便利だなと思っていて、それゆえにどういう状態なのかがわからなくなる。過去をふりかえれば、「こじらせ」てたし「メンヘラ」だったなと思うのだけど、過去は過去でせいいっぱいやっていたつもりでもあるので、バカにしてしまうのもよくないなと最近になって思い始めた。

 

新潮45の報道を聞いて、編集者は違えど「考える人」の大ファンなので同じ会社で起こってしまったことに心底がっかりした。だからこそ感覚が敏感になっているのかもしれないな。いやだなあ。

そういう違和感と向き合えば、演劇のひとつにもなろうな。ただし中途半端だと自分が苦しくなってしまうので、やるなら本当に、ちゃんとやらなきゃいけないって思う。


Neon Sign/メトロノーム


最近抱いた感情について書く。ふわっとしたことしか書けないから意味がわからないとおもうけど、自分の整理のためのアウトプットです。ごめんなさい。タイトルは米津玄師のBremenを聴きながら書いてたからってだけ。

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飛び込みで髪を切った話


精神の調子があんまりよくないなと思い、近所に髪を切りに行った。ふざけた気持ちでついでにパーマもかけてもらい、くるくるのショートカットになった。飛び込みでいったくせに、楽しんでやってくれてよかった。またいける美容室をやっとみつけたような気がする。(パーマを待つ間、アルコールを頼めたのも最高だった。あんまりないよねそんな店)

髪を切ってから何人かと打ち合わせなどで会ったが、全員から絶対にそっちがいい、性格にしっくりくると言われた。今まで伸ばしてきた理由はとくになくて、本当にただ切りに行くのが面倒なだけだったのだが、切らなきゃと思ったのは、好きな服を着ていた時に「某アイドルにいそうだね」と言われたのがきっかけだった。アイドルたちはなにも悪くない、でもそう言われたのはなんというか、大変個人的に「あ、無理」だと思った。この気持ちはおわかりいただけなくてもよい。

小松未歩も「前髪を切っただけで生まれ変われちゃうそんな考え方が好きよ」と言っていたし、髪は大事なんだな。近所にいいところを見つけられたので、これで安心して切りに行ける(レモン酎ハイも飲めるし)。


新規団員募集しています


灯台とスプーンのお知らせを、昨日発表して、さっそく連絡があったり、動いているなと思う。本当にありがとうございます。

せっかくだし、自分の頭の整理のために、灯台とスプーンのあれこれを個人的な記録として書いておこうかなと思います。

灯台とスプーンは、私が仕事を辞めてフリーランスになり、新しい脚本をなんとなく考えていたところに、安藤美由紀から声をかけてもらってできた団体です。学生の時に作った「水辺のアンシー」という作品に参加していた柳田詩織と三人で、2015年にもういちど演劇を、という初心にかえる気持ちで始めました。

それから、いろんな人の力を借りて、「狐/真夜中の共謀」、「まがいものの乙女たち」、「海をわたる獏」、「藪に坐る人」の大きく4つの作品を作って来ました。どの作品も、並んでいてとてもいいタイトルだなと自分で思う。そして次の「幸福な山羊王子とおひめさまのはなし(仮)」急に長くなったけど、これもなかなかいいタイトルだと思う。

自分にとって作品のタイトルは、好きな本の背表紙を集めている感じがしていて、それだけで作品の空気を思い出せるようにしたいと思ってる。お話なんてすでに世界中に溢れているけど、まだまだいろんなタイトルを集めたいし、いろんな場所で上演がしたい。

灯台とスプーンの「演劇」らしからぬ部分も含めてたくさんの人に知ってもらいたいし、少しでも「灯台とスプーン」というものが渡ったらいいなと思っています。とくに、2016年に上演した「海をわたる獏」は、自分がどんなことを演劇で表現したいのか、どんな心を乗せるべきか知ることができた作品で、灯台とスプーン、としての存在意義をやっと少し感じられた気もしていて。

そんな中で、三人だけでは正直エンジンが少ないな、と思いながらこの二年程を過ごしていて、そこへ安藤のお休みが決まり、これはちょっと足りなくなるかもしれないと考え、新しく団員を募集するに至りました。むしろ、これまで三人でよくやっていたなとも思いつつ……。

私も団体所属というものをしたことがこれで初めてで、大学時代もホールが使えたから個人でいろいろ企画をして、岩井先生に無理を言ってさせてもらっていただけなので、「劇団運営」というものを知らない。(演劇部ですらなかった!)でも、やりたい気持ちだけでここまでやって来て、応援してくれる人も増えて、勘違いさせてくれて、上を目指したい気持ちがでてきてしまった。

だから、正直な気持ちで、一緒にこれから強くなっていけるひと(うーん、ちょっと言い方が雑?)、いい作品を作っていけるひとと進みたいなと思っています。だから正直、役者さんじゃなくてもいい。灯台とスプーンの、と一緒に名乗ってくれて、面倒な運命に巻き込まれてくれる方がいてくれたら、まずはうれしいなと。

演劇なんてこの世の中でもっとも非効率なものかもしれない。でも効率的という言葉が賢くて好きだった10歳の私が20歳でひっくりかえって、乗り換えた。この非効率は人間を救うかもしれない、と思ったのです。

その船に一緒に乗ってはくれませんか。

 


氷の上に立つように


小松未歩の「氷の上に立つように」という歌が小学生の時かなり好きだった記憶を、最近行ったカラオケで思い出した。もし宇宙船が来たら友達だって残して地球を飛びたってしまうだろうって、こんなに魅惑的な歌詞はないと小学生なりに思っていた。私も宇宙船に乗りたい、今でも。しかしこの曲を使って、運動会でポンポンを振らされていた理由はよくわからなかった。かなり、集団行動に似合わない歌なのにね…。

ともかく、こうも歌詞に惹きつけられる歌はあまりないので歌詞を読み返していたら「望み続けた場所で生きているんだから」という言葉があったりして、もしかすると当時の小松未歩自身の冒険や生きざまの歌なのかもなあ、なんて妄想する。音のキャッチーさによって気づかなかった。そのあとに「内緒よ恋をしたって」という言葉があって、むしろその恋が大事だからこそ薄めている、感じもして良い。内緒だしね。

いてもたってもいられず、コナンの初期のオープニング集のCDを借りてきた。小松未歩の音楽のマイナー感というのか、音楽のことは詳しくないからなんとも言えないのだけど、あの感じがとても心地よくて、かつキャッチーで、椎名林檎の音とはまた違ったいい上がり方の癖があるなと思う。そして完全に主観だけど、90年代の音楽はとても豊かだなあと。あの頃に子どもをやっていてよかったなと思う。

「氷の上に立つ」っていうのは、スケートリンクとか綺麗にされた氷上ではなくて、きっと凍った湖面とか、海とか、そういうところなんだろうなと想像する。わりと、あぶなげなことをしてきたけど、これからもあぶなげでありたい。さいあく、落ちちゃってもいいし、地球に帰れなくてもいいや。


だめだめ。


ボトルコーヒーなんてだめだめ、と思っていたのに、UCCのアイスコーヒーを飲んでから美味しいし楽!と気づいてしまい、すっかりアイスコーヒーはボトルで買うようになってしまった。便利さに負ける。ホットコーヒーはいまだに豆を挽いてドリップしているのだが、アイスコーヒーをうまく作るのが苦手で、まさかここに落ち着くとは思わなかった。そういう、「だめだめ」が覆されるのがちょっと嬉しかったりする。

土井善晴先生の『一汁一菜でよいという提案』という本がとても好きで、いろんな人におすすめしまくったり貸したりして、どこにいったのか今手元になくなっているが、この本も「だめだめ」を、家庭料理の神様とも言える土井さんが「ええよええよ」と言ってくれるすごい本なので、ぜひみんなに読んでほしい。生活はたのしく。

しかし一汁一菜でよいと言われながらも最近は本当に食欲が出ず、ペンギンハイウェイのお姉さんにでもなってしまうのかななんて妄想をする(私もペンギンを出したい)。体重は落ちてくれているようだが、顔は丸いままだし現実は思うようにいかない。トマトジュースだったりポタージュだったり、相変わらず一人でいると流動食ばかり食べていて、今日は無理して買って来たお惣菜を食べたら2時間くらい機嫌が悪くなってしまった。食事によってこんな気持ちにさせられるなんてかなり面倒な体だとおもう。が仕方がない。まだまだ暑さで身体が火照ってしまってるし、またトマトジュースを買いに行くしかない。そしてそんな自分もだめだめ、と思わない方が結果として健康に良いと思っている(だめだめ…)。


九州演劇人サミットのこと


九州演劇人サミットと、その後のサマーパーティーに参加しました。とにもかくにも、持続可能な運営、というものが大きくテーマとしてあるなと思って、自分たちのスタイルで続けていきながらいいものを作り続けていくことが何よりも大切なんだなと。お誘いいただきありがとうございました。

九州のたくさんの演劇人と会うことができて、人見知りをしながらも、話しかけたり、声をかけてもらったりして嬉しかった。サマーパーティーでは1分間の団体PR時間を設けていただき、新しい作品についてもちょっと触れることができた。きっと5分くらい話していたかもしれない。すみません……。

ちょっと背伸びをした宣言などもして、叶うかなんてわからないんだけど、そういう気持ちでやりたいと思ってたんだ、と言った後にきがつく。でも、そうだよな、いろんなひとに勇気をもらったり、応援の言葉をもらっていて、よかったら本当に結果にしたいんだよな。

思えば、演劇を続けることで、本当に多くの素敵な大人に会っているな、と思う。作る側、でいるだけで、まさかあんな人にも、こんな人にも会えるなんて。生粋のミーハーなので、それが一番うれしかったりする。素敵な大人、というのは、まだこの先いきていくことを信じられるような作品を作れる人たちという意味だ。自分もできれば、そういう作品を作りたいと思う。

あー、いい演劇がみたいなあ。


犬とカレーとウイスキー


突然誘われ、さらに突然誘って、ケニーさんとみねおさんと一緒にカレーを食べた(モップみたいな足のかわいくてお利口な犬がいて最高だった、またぜったい行く)。その後、峰尾さんのお家でウイスキーを飲みながら、たくさんおしゃべりをした。猫には会えず残念だった。

にんげんのことをいっぱい話したのだが、最終的に演劇を通して哲学をしたいんだろうなというところにまとまった。それから、中学生くらいの時に世界征服をしたい(そうすれば世界が平和になれるという独裁思想)と思ったりしたことも話した。中二病とはいえおっかない。

さいきん演劇関係のひとたちと、たくさん話せている気がする。とてもうれしい。多くの人と一斉に、はむずかしいのだが、少人数で長く話せる相手がいることに救われている。何か、面白いことをたくさんしたいと思っている人といるだけでも、元気がもらえる。

眠りながら演劇のことをずっと考えていたようで、今日も夜は子どもとのWSの夢を見た。ただ、今回は本番でハプニングが起こり、助けてもらいまくりで、申し訳ないやらありがたいやら大変だった。


あたらしい仕事鞄


2年くらい使っていたPC用のバッグが、ぼろぼろになってしまったのを友人の鞄屋さんに見つけられてしまい、とてもよい感じの革と帆布の鞄をおすすめされて購入した。(ありがとう。)メンズ向けに販売されているもののようだったが、いつも使っている帆布のリュックサックもユニセックスのものだから気にならない。むしろ「女性用」とわかる鞄はいろいろと機能に制限があったり、持ち手が細すぎたりするので、PCと手帳や本を入れて運ぶには大変だったりする。すすめられた鞄は機能性重視という感じで、かつ見た目もすてきだったので、かなり気に入ってしまった。早く使いたいな。

革や帆布のものがとても好きだ。丈夫で長持ちするし、あまり性別を主張しないのでよい。京都で買った一澤信三郎帆布のポシェットももう4年ぐらい使っているし、前使っていた仕事用鞄も革のものだった(それも、使いすぎて底が破れてしまった)。ブランドもののバッグなどには興味がないが、そういった「長く使えるいいもの」に対して価値を感じすぎていて、かなり弱い。ただ、鞄屋さんは魅惑的だが、欲望のままに買えない金額だから助かる。

その友人によれば、今は軽い鞄の方が求められることが多いんだそう。確かに機能的には軽い方がいいのだろうけど、そういったものが好きな人間からするとすこしさみしい気持ちになる。今回もきっと酷使してしまうだろうけど、できるだけ長く使えたらいいな。


大きなアセビと暮らす


7月末に買った大きなアセビの枝が、いまだに部屋に存在していて、驚いている。太い枝ものは長持ちするよとは言われていたが、少しずつ葉が落ち最初ほどの元気はないものの、まさかここまで続くとは思っていなかった。アセビは食べたら毒があるらしく、買って来てその情報を知ったときは、「この葉っぱを全てミキサーにかけてスムージーにすると」、という結構ヤバめの想像などをして遊んだ気がする。木があるだけでホッとするので、おかげさまでそんな気持ちは起こさずにすんでいる。

今週は結果的に大きな動きのあった一週間だったわけだが、にしては、淡々と日々を過ごしていると思う。いわゆる「第三者的な目が上にあって自分を見下ろしている感覚」は小さい頃からときどきあったけれど、今はまさにそういう感じで、次にわたしがどう出るのかを見ている。そうすることで色々な考えなければならないことから逃げているのかもしれない。

ある劇作家とお昼ご飯を食べていた時、その人がいま書きはじめてしまった小説の話になった。人情芝居を書くのが上手い人(だと勝手に思っている)なのだが、その人はイタコタイプの作家で、書いていたらいつのまにか物語が進んでいるという。これは少し自分にも似ていると思う。それで、いつの間にか紡がれた話に、後から感動して「そんなことが起きてしまうのか」と自分で作った作品に落涙するのだという。そういえばこれも自分に似ている。

作家が作品に自分で感動してしまうなんてエゴがすぎるのかもしれない。しかし、自分のグッと来るレベルを超えていないものを外に出すなんてそっちのほうがお客さんに失礼だよななどと、サイゼリヤのカプチーノを飲みながら思った。むしろその「自分で感動しちゃう」ことで、淡々とした生活が救われるかもしれないと少しばかり思っている自分はかなり面倒な人間だと思う。


たぶん友情のために


この記事では時々やってしまう「少女革命ウテナ」についての考察しかないので注意。また、すっごいラストのネタバレしか話さないので注意。

永遠という言葉がすきだ。響きもいいし、字もいい。この字が永遠という意味を背負っていることがまるごと美しいと思う。そして私の好きなアニメ「少女革命ウテナ」は、永遠との決別の話だと思っている。

デュエリストたちは奇跡や永遠を望み、それを手に入れるために戦う。勝者は姫宮アンシーとエンゲージし、「世界の果て」からの手紙によると、アンシーはいずれ勝者を「永遠があるという城」へ連れていく存在だとされていた。主人公は決闘に巻き込まれた頃には、「女の子を取り合うなんて」と否定的だったが、だんだんと自分自身が「王子様に再会する(自分がお姫様という存在になる)」奇跡を願っていたことに気づき、そしてそれは姫宮にとっても自分にとっても破滅であることを知る。まあそういった話だ。

ウテナは姫宮の王子様になろうとして、なれなかった。しかし、姫宮は物語の最後に「学園という永遠」のなかで繰り返される決闘ルール、つまり姫宮自身と暁生との関係性を壊した。色々な考察があるが、これがふたりの少女による革命だと私も思っているし、これは奇跡ではなく、ふたりが培って来た友情や愛による革命だった。

姫宮アンシーは、暁生というかなしい兄であり元・王子様との共依存関係にあり、これは強く約束された永遠の愛、だった。この愛をつづけるために彼女は花嫁であり魔女にならざるを得なかった、という衝撃が高校生のときから自分の頭に大きな十字架のように突き刺さっている。

 

たぶん友情のために、というのは、12話・生徒会編ラストのタイトルだ。この話には「普通、になってしまうウテナ」「それに怒る親友の若葉」「冬芽の花嫁となった姫宮」の三人の関係性が描かれている。「たぶん友情のために」というタイトルはもちろんウテナと若葉に対する意味としてとりやすいと思うが、ウテナは「若葉との友情のため」だけに決闘したはずがなく、姫宮との友情の意味も含まれる。では「たぶん」はなんだろう。これが、「ついつい涙を流してしまった」姫宮の気持ちだったらと思うとつらくなってしまうし、このエピソードが姫宮にとって「永遠」との対峙の始まりなのかもしれない。

ともあれ自分の気持ちをだれも明確に言葉にできておらず、不器用な三人がみないとおしい。そしてこの複雑な関係性をギュッと一話で描けてしまう力が私は欲しいよ。


チラシ記念日と夢のこと


仕事まわりですこしだけいいことがあった。大げさに書くと自意識の過剰さがばれてしまうので詳しくは書かないが、まさか生きていたらこんなこともあるんだな、の一つが起きて、思わず関係者の方にメールを送ってしまった。ちょっぴりうれしい記念日。

仕事をする中で、お金ではない部分での喜びを求めてしまいがちで、気づくとお金のことを考えなければならなくなったり、でもいつのまにか損する方向に動いてしまったりと、ほんとうに自分は頭がわるいと思う。でもこんな頭じゃないとフリーランスで演劇をしてデザインをするという選択肢には至らないのかもしれないし、もはや悩んでいいことなのかもわからない。稼げるときはいける、だめなときはだめ。人と違うことをあきらめて頑張って生きるしかない。と、思えるほどには苦しい状態から脱したのかもしれない。どうやったって今は死なない気がするからいいじゃない、って。

ある人と話したときに、他人のドラマにはつきあえないよ、といった言葉を聞いた。したたかで、リアルで、とてもいい言葉だなと思う。脳内で椎名林檎の「人生は夢だらけ」、が流れると同時にエリザベートの「私だけに」が流れる。自分が波に飲まれないように、乗って、操縦していくしかない。そして選んだ相手と踊ろう、いつだって。

夢といえば、最近また自分の都合のいい夢ばかり観てしまう状態が続いていて、起きるのがとてもむづかしくなっている。先日は一緒に演劇を作った子どもたちがみんな私の家に遊びに来て、飲み物がないからジュースでも買いに行くかねといった平凡なやり取りをしていた。なぜか私の部屋は畳張りになっていて、みんなで寝転んで色々話して過ごす夏休み、という感じの夢。

そういった夢を筆頭に、非常に幸せすぎてしまう夢を見ることが増えた。いつか本当に覚めなくなってしまうかもと友達につたえたら、その時はなんとかして起こしに来てくれるらしい。たしかディカプリオと高倉健の映画でそういうのあったよね、といったことを思いながら。


カムパネルラと幸福な王子


「銀河鉄道の夜」のアニメ版を小さい頃何度もなんども見ていた記憶がある。特に夏休みに、アニメスペシャルでnhkで毎年やっていた放送を見ていたし、かつビデオに録画したものもときどき見直していた。とても静かで淡々とでも見逃せないまま進むお話、その最後に強烈な演出のラストシーンが心をつかんで話さなかった。

大学生になってはじめて長編の演劇にどっぷり参加した作品が、別役実の「ジョバンニの父への旅」だった。本読みの段階からとても嬉しくてたまらず、その思いだけでカムパネルラ役をもらった。下手くそな演技でいま観たらきっと卒倒してしまうだろう、でも「はじめて」というのはとても印象的で、演劇を作る上で「こんな思いをすることになるとは」という感情がたくさん生まれた本当に大事な時間だった。そこには本当にすてきな、今でも活躍している先輩がたや同級生、(その経験からお互いを知ることができた)気心の知れた友人、そして岩井先生がいて、人生を振り返るととても大事なできごとだったと何度でも思える。

と、そういったことを経験して大人になり、再びアニメの銀河鉄道を観たとき、脚本が別役実だったと知り勝手に悲鳴をあげたりしたことがある。私は本当に何も知らずに演劇をしていたし、アニメをみていた。でも意外と、「元々好きだったものが演劇と繋がっていたことに気づく」というシーンには結構なんども出会っていたりして、そういう「つながったと気づく瞬間」みたいなものを、いつのまにか勝手に自分で生み出しておきながら、勝手に感動したりして生きている。

現に、宮沢賢治に繋がる人はあまりにも多い。でも、なんといったらいいのかわからないけど、私の思っているつながりは、ただ単に宮沢賢治や銀河鉄道の夜だけで繋がっているというわけでもないと思う。例えばそれはカムパネルラと「幸福な王子」について延々と考えたりするようなことだ。カムパネルラとジョバンニ、王子とツバメの関係性を考えて、カムパネルラがジョバンニを鉄道から降ろしたのは、旅人であるツバメを解放してひとりで本当の幸いを背負ったんじゃないか、そのたびに「僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」、と云うジョバンニの言葉と、溶鉱炉で溶けてすずの心臓だけ残った王子のことを思い出す。あるいは、ジョバンニ自身がツバメとして「王子と共に死ぬ」ことを拒否したのか、などと、延々とやってしまう。その思考はとてもたのしくて同時に少し辛い。

好き勝手に長々と書いてしまった。ブログだからゆるしてほしい。なぜ今かというと、最近あらたにそういった自分のルーツにつながる出会いのようなものが今近くにあることを知り、もうすぐその人に会えそうなのでとても嬉しいのだ。かつ、今書いている話にもとても深く繋がっている気がしていて、早くその人に会いたい、会って話を聴くためにもっと学んでおきたい、とも思っている。


不運と硝子と終わること


深夜まで脚本を書いたり、長いメールを書いたりしていて、他の仕事が完全におざなりになっていることに後になって気づいたりする。どうやら脳みそがとても疲れてるのに、同時に変にハイになっていて、ただしい優先順位を見極めることが出来なくなっている感じ。ご迷惑をおかけしております本当に

今日も今日とて、夕方までぐったりして、好きなダンサーさんとコーヒーを飲んで灯台とスプーンの人たちと会った後、マクドナルドで深夜四時ごろまで脚本を書いた。帰る頃にとつぜんの土砂降りにあい、びしょびしょで帰宅。そして、洗い物をしていたらまたもやお気に入りのグラスを割ってしまった。とても気に入っていた味わいのある六角の吹きガラスだったのだが、思いっきりやってしまった。

今まで不注意でガラスを割ることなんてなかったのに、今年になってコーヒーサーバーを割り、砂時計を割り(これは触らずに)、そしてグラスである。とても悲しい。しかしものなんていつか壊れる、むしろ壊れるものしか信じられないし、何にだっていつか終わりはやってくるのだとか言ったりして、しみじみとしながら乗り越えるしかない。きっともっといいグラスと出会える日が来るかもしれない。それに、ひとまずは今まで仕舞っていた貰い物のグラスを出す時が来た、と思おう。

夏の演劇WSの最終日に「終わりが来ることは悪いこと、悲しいこと」と言っていた子がいたけど、終わることで始まることもあるよ、ね。


衝動とポタージュ


心の落ち着かない出来事があり、それを考えることで一週間が一気に過ぎていった。さいわいそのことについて話せる人がいて、色々な人と話すきっかけにもなり、私にとってはより考える機会が増えて良かった(と思い込むことでセーブしている)。

料理する気力なんて全くなかったのに、こういうときに限って夜な夜なかぼちゃのポタージュを作り出す。

小さいスムージー用のミキサーで撹拌したのだが、これは今後面倒だと思い、いつかメルカリで稼いだポイントでハンドブレンダーをポチる。おいおい。

しかし、もともと元気がすくないにんげんなので、こういう時の衝動から生まれる無駄な行動力を味方にするしかない。どっちに転がったとしても、動いていることのほうがきっと良い。

食欲がないときに野菜のとれるポタージュはとてもいい(お味噌汁よりも飲みやすいときがある)ことに気づき、きっと今年の冬はさまざまなポタージュを作り出すことになるだろう。じゃがいもなんて安いし、きっと良いだろう。そういうことにする。


イケメンと思い出


最近ほどよく過去好きだったものを思い出すきっかけが巡って来る。良い作品が、発表から20年くらい経って続編を作ったり、アニメ化したり、舞台化したりするおかげもある。それだけ今、つよく人を惹きつけるオリジナルが少ない状態、とも言えるのだろうか。まさかブギーポップは笑わない、が再びアニメ化するなんて思いもしなかったし、少女革命ウテナがミュージカルになるなんて思いもしない。中学生のころに好きだったものたちとあらためて出会うとき、当時の心境を鮮明に思い出す。

10代はアニメばかりみて生きていたので、イケメンの定義がわからなくて会話についていけず苦労したことがある。初めに好きになった俳優さんは、思い出せる限りでは、アラン・リックマンだった。しかしそれもスネイプ先生、としての役割が好きだったわけで、そういった役割としての永久欠番になれる俳優にあこがれる。寅さんだってそうだ。男はつらいよ、はいいぞ。つまりやはり人のかっこよさ、は顔よりも台詞や考え、行動にやどっているものだと思う。

最近友人が宝塚にしょっちゅう行っているようで、Twitterに宝塚情報が流れてきた。高校生の時、母と姉がスカイステージ(宝塚の専用チャンネル)を契約していて、時々一緒に録画された作品を観ていた。エリザベートとファントムが好きで、時代や組の違ういろいろなパターンでいくつも観ていた。でも、母や友人のように、「この俳優さんが、このペアが好き」という感覚になったことはなく、どちらかというと物語や演出の方に目が行っていたなどと思い出す。(というか、誰が誰か、あまりわからないまま観ていた。ごめんなさい)

俳優の誰、とは言えないけれど、例えばエリザベートの、夜のボートのシーンや、ゴーストとなって語りかけるお父さんのシーン、精神病院、ルドルフの死など、好きなシーンはこと細かに覚えていたりする。エリザベートは後半のたたみかけるような、それでいて静かな不幸のシーンが味わい深くてとてもすきだ。

それで、イケメンの話に戻るのだが、おそらく私は人の顔に基本興味がなく、認識する脳がめちゃめちゃ弱くて時間がかかる。だから、顔だけで「あの人かっこいい」と言えてしまう認識能力、判断能力はすごくうらやましく、私にはほとんどできないので、苦手だ。そうかあれはかっこいいのか〜、そういえば顔が整っているかもしれない〜と、実感ができないまま終わる。普通にひとの顔を覚えるだけでも大変なのに。

でも「この人は好みだ」とすかさず思ったりすることもある。ただそれって基本的に女性が多く、とくに着ている服を見て思うのだろうな。だから多分、「これは良いデザインだ!」の方。

今年はコナンの映画がとても面白くて、私ももれなく安室透のことが好きになった。が、それでも初回観た時は「かっこいい」という認識はしなかった。どちらかというと「こいつはヤバイ」だったな…。まあそもそも安室さんは生身の人間ではない。


いろいろな飲み物の話


昨日は食のことを書いたので、今度は飲み物のはなしでも書くことにする。

家で色々飲み物を飲めるようにするのが好きで、コーヒー、紅茶、緑茶、麦茶、炭酸水、冷たい抹茶をいったりきたりして飲んでいる。抹茶は、伊藤園の抹茶粉末をペットボトルの水などに入れて振って作る。いつか唐人町のマミーズで買った抹茶loveという最高な飲み方を家で実践するために粉末を買ってきた。牛乳も常備しているので、アレンジもいろいろできて良い。

この夏はとくにアールグレイティーにはまっている。口がおこちゃまなので、ちゃんと香りがするとうれしく、スタバで打ち合わせをする時もよく頼んでいる。ミルクティにしてもおいしいし、すごく疲れた時に飲むと癒される。麦茶と同じやり方で水出しもできるし、朝ホットでつくったもののあまりを冷蔵庫に入れて飲むのも良い。

昨日は久しぶりにコーヒー豆をミルで挽いてハンドドリップして多めに淹れた。カフェインのおかげで仕事がすんなりひとつ済んだので、やっぱりコーヒーはすごい。こうして、食欲とはうらはらに、飲みたいものが多すぎて飲みきれない状態が生まれている。

アルコールはほとんど飲まないが、今年とつぜんウイスキーにめざめて、バーボンだけはときどき飲むようになった。メーカーズマークをロックでちょっとだけ飲む。香りが好きで、量が調節できて良いし、翌日に残らないから気を抜きたい時に飲むことにしている。ビールいっぱいでベロベロになることもあるのに、ウイスキーはチェイサー入れつつ外で3杯飲んだときも気分が悪くならなかったので、わりと相性が良いのだと思う。

年上のお姉さんといつかお酒の話になり、この話をしたら「かわいくなさすぎる、せめて梅酒とか飲んでて欲しかった」と言われた。


仮想通貨と偏食と約束


仮想通貨について、少しも知らないから世の中を知るために勉強しようと思って、いくつかメール配信しているところに登録してみていたけれど、機会損失をうたって「入金しなさい」ってばかりうるさいので、やっぱり気持ち悪いねと思って離れた。お金はやっぱりあるに越したことはないが、今はお金だけあっても仕方がないな。

仕事をかなりセーブしているので、本当は頑張らなければならないのだが、焦りを超えて大丈夫マインドになってしまっている。このまま貯金を使い切るまでいってしまうかもしれない、なんてね。少しずつやっていきます。

体質的なものだと思うけど、本当に体がうごかなくなってしまうと季節問わず一日中寝てしまったりする。ここ数日はこうして文章を書いたり、とりあえず手はうごかすことができているので助かる。何か食べたいけど、別に何も食べたくないという面倒な欲求に対応するために、今日はとりあえずあったら食べるかもしれないものをスーパーに買いに行った。

今のところあったら食べるものリスト

  • さけるチーズ
  • 牛肉、コンビーフ
  • グラノーラ
  • アーモンド
  • アスパラ、ブロッコリー、トマト
  • トマトジュース
  • コーンかかぼちゃの冷製スープ

誰かと一緒に食べるときは割となんでもいけるのに、家だとなかなかわがままだ。偏食がすぎるが、けっこう食べれる物が増えてきた。これがひどいときは、液体ばかりになってしまう。料理ができるマインドになったら好きな野菜を煮たり、卵を食べたりする。会社に行っていたときはたまにお弁当をつくったりしていたし、結構食べれていた。そういうものだ、と思い込む力はとても強いなあ。

いつか生命保険の営業さんと何度か会って(結果契約はしなかったのだが)、その方もフリーの営業さんだったので、フリーランスで暮らすことについていろいろ話をしながら、やっぱり自由がいいとは限らないよねという話をした。約束や、ルールがないと生きるのがつらい。とはいえひとりでする約束ほど寂しいものはない。つまり早く稽古がしたいんだけどね。


福岡学生演劇祭2018


昨日は福岡学生演劇祭Bブロックを観劇。観劇レポートがアップされたので、こちらから読めます。5団体一気に観たのですが、隣で一緒に観たひかりちゃん(以前に陰湿集団とのコラボライブで共演)は Aブロックから10本一気に観ているとのこと。すごいな…。

いくつも観るのは体力がすごくいり、昨年高校演劇の全国大会をたまたま広島で観た時も、一本観たのがすごく面白くって、しかしお腹いっぱいになってしまって出てしまった。(のちにその作品が全国1位をとったと知る、ラッキーだったなあ)

演劇はコミュニケーションだなあとつくづく思う。とくにこういうフェス系はコメディがどこまでも有利で、仕方がない気もする、20分以内でわかり合う(わかり合った気になる)ために。でも自分はあんまりコメディじゃない演劇をつくっているので、こういう場所に立った時にどうやって、何を渡していけばいいんだろうなあと、あらためて考えたり。

しかし学生でこれだけ作れるならすごくいいよなあと思った。突然自分の黒歴史を省みてしまう瞬間もありグアアとなったりもしたが(今も継続中の可能性は多分にある)。いいなあ、続けたらどうなっていくんだろうなあと思いながら、西新のマクドナルドでレポートを書き、帰ったらくたくたですぐに寝てしまった。

エレカシ聴いて元気を出して作業をつづけます。


怖い顔のクマの夢


めちゃくちゃ怖い顔のクマが出て来る夢を見た。ツキノワグマとか、そっちの方向じゃなくて、ブリグズビーベアのクマとか、アメリカンポップな感じの方向性の。でもクマはべつに攻撃性があるわけじゃなくて、ひたすら通り道に立っているだけで、つまり一匹ではなく通行人としての役割だった。クマのいる道をただ歩く。そういう夢。

クマの夢は強暴性や母性を意味しているらしい。しかし、ツキノワ系の熊に追いかけられる〜といった夢のことばかりで、ポップな方のクマの夢についても解説して欲しいけど、そういった夢は検索しても出てこなかった。

 

昨日は朝から部屋の片付けをして、作業スペースをしっかり広々と取れるようになった。テーブルの足元に大きめの収納を置いていたが、なかなか窮屈に感じていたので、別の場所に置くことにした。これで足をばたつかせられる。体にもいいかもしんないね。

話したいと思った人に連絡をとったり、まさかこの人から!という方から連絡があったり、心根がミーハーなにんげんなので、すてきな人と繋がっていけることがうれしい。しかしまだまだ自分に自信がないので、うれしさの反面だいじょうぶかな、ちゃんと話せるかな、なんてことも同時に思ったりもしている。よわっちい。


占いと休みます宣言


占いはずっと信じないタチだった。「結婚」とか「仕事」とか一般的なことしか語られないし、自分には関係のない領域だと思っていたのだけど、いま書いている脚本に「山羊座」が出てくることもあり、色々抱えている問題もあったので友だちに連れられて占ってもらったところ、なんだかカウンセリングとしてちょうどいいなあと思った。

占い、面白い。ただ、占われている、というよりも、表情とか、話す声、言葉遣い、仕草で、どんな人なのか言い当てられているように感じる。未来を詠むというよりも、観察家で、シャーロックホームズみたいだと思う。今、を知るのに良い。話しているうちに、自分が本当はなにを目指していたのか、忘れていた目標や、身体に無理をさせすぎていたな、とか、本当に細かく今の自分がどういう人間だったかを知れるような気がする。

自分の前職とも似ている気がする。仕事についてのことだけだったが、話をきいて、状況を判断して、どうすれば良いかを一緒に考えるような。対面の占いは医療機関ではないカウンセリング。うむ。

8月の頭から人間関係で少し大変な思いをしたのもあって、その問題がずるずると続き、正直かなり疲弊していた。ちょっとこれは良くないと思いTwitterで休む宣言をした。

休むぞ!と言い聞かせて暮らしていると、じつはやっていることは大して変わらないのだけど、かなり気が楽になった。自己肯定感も回復してきて、暗くなっていた視界が広がったみたいだ。本当はなにもしなくていいのに、今日はこれもやっちゃった!という、なぞのポジティブが身についている。今だけかもしれないけどね…。


関門オペラとしーさんの誕生日


非売れさんの「関門オペラ」をミリカローデンに観に行った。行きは新幹線とバスに乗ったのだが、かわせみバスは定員を大幅にオーバーした、すし詰め状態で運行されていた。安藤は体調不良で来れず残念だった。

一回きりの福岡公演、開場前の列がものすごく長くてびっくりした。作品もとても素敵で、でもこれ非売れだよね?という驚きもあり、すごい勢いで進む演出にワクワクした。ケニーさんがはじめから飛ばしていて、終始ニコニコして観た。歌うぽちさんがかわいくてかっこよかった。観劇後は誕生日の柳田詩織、田坂さんと同じ日だったねという話をしたりして、他にもたくさん演劇関係の方がいて挨拶合戦みたいになっていた。

しーさん(柳田)と一緒に食事をしたり、お茶をしたり、場所を転々としながら近況や脚本についての話をした。お誕生日にふりまわしちゃってごめん。でもまた少し整理されたような気がする。脚本についても、まだまだやりたいことばかりで、それをいかにつなげるか苦しんでいる。

なかなか共有しにくいポイントに入っていて、例えばストーリーの大枠ができたところで中身に苦しむのであれば相談もしやすいのだが、ストーリーの大枠自体がまだ変幻自在、という感じなのだ。お話の芯が通っていないところでの共有は、概念的なものの積み重ねをどう料理するかみたいな話になってしまうので、かなり意見が言いにくいと思う。

ストーリー、から作れたらすごく進みが早いし、ちょうどいいセリフを見つけることができるのもわかっていて、しかし灯台とスプーンのシリーズ(?)は、なんでか登場人物の内面性から作っていきたいという謎の欲求から、こういうつまづきが多い。

戯曲も詩的に寄りがちなので、ロジカル寄りに作品を観るお客さんには不快な思いをさせてきたかもしれない。ここを超えられたらいいのだろうなと思い、一昨年あたりから考えているのだけど、どうしても自分の頭のわるさかなんなのか、そこのところに関しては進んでいる感じはしない。

とにかくまだまだ数をこなさなきゃいけないんだろうなと思う。


アスパラと割れた砂時計


またもやホーリーと半日を過ごした。連日の疲れが出てしまったのか昨日は疲弊しきってしまい、休む宣言をしたのだけど、彼女が家を掃除する理由として私に来て欲しいと言われ、ただ家に行って、テレビをみて、話をして、ご飯をつくって食べるという平和な暮らしをして遊んだ。この平和さによって、精神的な疲労がかなり回復したように感じる。彼女の出身・壱岐でとれた、立派なアスパラガスももらった。なんというしあわせ…。

癒しが欲しくて私が犬や猫を飼いたいという話をするといつも彼氏ができるまではダメだと言われる。多分10回以上このやりとりはしているのだけど、そういうところも面白くてすきだ。そもそも私の家はペット可ではない。

今度はうちを片付けて、また近いうちに呼ぶことになった。

家に戻ると、15分測れるタイプの砂時計が割れていた。あまりの状態にびっくりしたのだが、そこまで深く落ち込むことなく片付けることができた。きっと何か他の形で私に降りかかろうとしていた不幸から守ってくれたんだろう、と、思い込むことにした。


墓参りとふわふわの犬


熊本に帰り、墓参りをしてきた。墓地は、祖母が暮らしている介護施設の近くにあって、連れて行きやすい場所を選んだのだなと今更気づき、私もいつか、そんなことを考えるときが来るのだろうか。

いとこの家にいる犬はふわふわで可愛い。10才になるらしく、彼ももうおじいちゃんだ。家族の集まりの場で私はうまく話せず、わざわざべらべらと自分のことを語る必要もないと思ってしまい、だったら他の話題は?と考えてもなかなか会話を思いつかないせいで、結局犬とばかり遊んでしまった。だめな娘、にうつっているのかもしれないな。

そんなだめな娘は、今あらためて演劇のことを強く考えているよ、自分に一体何ができるんだろうってことを、考えては悶々としている。

活動の場を増やしたいなら、単純にもっとたくさん書いて、もっとアピールしていかなければならない。でもそう簡単に書けたら苦労しないよねっていうはなしである。ただ、少しペースを落としすぎている事実はある。あまりカチコチにならずに手を動かしていく訓練が必要なんだと思い、ブログもまずは継続して書くことにしたのだった。ただの日記だけどね。

夜は演出家協会の方たちと会って、日本の戯曲セミナーという企画に参加することにした。本公演にかぶらないかだけが強く心配だが、こういうことでもしないと勉強する機会がなかなかない。それに、できるだけ演劇のさまざまなコミュニティに関わっていたいと思うようになっています。今は。


新しい服を着る


ここ最近しょっちゅう会っている友だちのホーリーが、洋服を見立ててくれた。休みを他人の服選びに使わせるなんて申し訳ないなんて思ったりもしたけど、楽しんでくれていたのでこちらもうれしい。店員さんに「よく遊ぶんですか?」と聞かれて、この間は●日に会ったよね〜などと話していると「もしかして、おつきあいしてるんですか」と言われた。おつきあいはしていないけど、気にかけてくれていて本当にありがたい存在だなと思う。

私は自分自身の女の子、を許容できないまま、色々とこじらせて生きていたと思ってる。私の周りにはこの感覚を持っているひとが結構いるのだけど、フェミニン〜な服をきている時は、「女子のコスプレをしている」という感覚になってしまうやつである。

かわいい服はムズムズするし、その状態で褒められたりしたら、やっぱりちょっと照れてしまう。似合ってるねだとか、かわいいねなんて言われることがあまりなかったり、言われても素直に応えてこれなかった人生なので、反応できずに止まってしまいがちで、素直にありがとうと返せなかったり。ごめんね。

選んでもらった新しい服を着て、すこし変わった自分で過ごしたら、なんとなくいいような気がする。中身は別に何も変わってはいないのだけど、昨日と今日は確実にちがうんだよ、と、時々実感できるといいのかもしれないなんて思う。

あすはまたあたらしい企画の会議に参加する。どんなかんじなのだろうか。楽しみだ。