愛と暴力に関するメモ

愛情がまがると支配欲求になる、という図を客観的にみつめてしまう現場に立ち会ってしまい、自分もそうなってしまう可能性とかいつのまにか成り立っている人が人の尊厳を奪うような暴力構造のはじまりが一体なんなのかとか、誰にとって大丈夫で誰にとってだめで、でもだめなひとにとっては何がラインなのか、ではどうすればいいのか、考えていた。

①言葉の意味と文脈
「ころすぞ」という言い方ひとつでも、(絶対にころさないし、相手も決してころされるなんて思っていないけど、あなたの行動のそれは改めてくれよという意味が通じ合っている間柄で)文脈が読めない人が近くで聞いていた場合、とんでもないことになる。でも当人たちにとっては仲良しの象徴的な挨拶だったりする。関係性と文脈にズレが生じた瞬間、言葉の本当の意味として受け取る可能性もある。だから「ころすぞ」なんて危険な言葉やめなさい!というのは、やはり文脈がおかしくて、たとえば「ころすぞ」が「ぴよぴよ」だったとしても、本当に悪意をこめて伝えられた「ぴよぴよ」は、ころすぞよりも凶器になりえる。

②愛情という名の支配と管理
「オレの生徒に手を出すな」というぬ〜べ〜的ヒーロー保護者にとって、例えばもっと生徒のことを知っている元担任が何か知ったかのようなことを言い出すと「私の方があの子たちのことを知っているしよく見ている」のような張り合いを見せる場合がある。私の方が知っている、私の方が見てきた。これはアイドルとオタクの、ホストと客のような関係でもあり、応援が、応援者同士の張り合いに変わる可能性がある。張り合うもの同士は愛する、という手段を使って「支配」を目指していることに気づかない。関係が固まらない中で一番だよと言われたい、というのは夢とか恋とかいう殻をかぶりながら、相手の感情をなんとかして自分の都合の良い方向に運びたい、コントロールしたいいという支配欲求なんだろうなと思う。そしてそれは、気持ち悪いよねとバッサリ言うこともできるけど、自然と湧いてきてしまうものでもある(人は人を差別する可能性があるのと同じくらい、支配したがる可能性がある)。他者に幻想、期待を抱くとき、ああ、私あの人を支配したがってる部分があるな、やべえなと、どれくらいの頻度で気が付けるか。

③尊厳を奪う可能性はどこにあるのか
想像力がない、と切り捨てることはいつでもできる。そうしてしまっていたなと思う。たとえばmetooで上がっている性暴力を振るった加害者。そんなつもりはありませんでした、恋愛のつもりでした、という個人的な感情が言い訳として上がり、それに合わせて被害者サイドの言葉を見ていると「恋愛のつもり、と受け取れるわけないじゃないか」と思うわけだが、どこで加害者が「恋愛のつもりでした」と思うきっかけになるのか。想像しろ、と言えば済む話なのかもしれない。でも酷い例も含め色々な事案を見てきたところ、本当に加害者らは、「つもり」を信じており、悪気から始まっての行動ではなさそうにも見える。たとえば演出家や監督という「えらいひと/その場の支配者」という身分を、本人はいつでも忘れてただの人間の「つもり」で生きている。被害者の目からは「そんな立場の人に○○される」という社会的立場の方があがるのだが、本人たちは「わたくし」として選択を間違う。あるいは選んでいるのかもしれない。性暴力に関しては「公私をわきまえている」人ほど「うまく(バレない、言わない相手を狙って)」加害を行うようにも見受けられる。そして、「私」との恋愛、にすりかえる。癒されたい、ケアされたいのは「私」であり、被害者もおそらく一瞬は「私」を名乗るその相手の態度に絆され、しかしすかさず「公」があることに気付かされるみたいなことなのではないか。(※もちろん彼らの行動は許容できるものではない。そんなことないと言いながらも明らかに女性を下に見ている感覚が行動の引き金になっているだろう、という前提などは一旦ここでは置いておく。)

④立場からおこるバイアス
身分を知らずに惹かれあった二人の片方の立場が強かった、という物語的幻想は私たちを憧れへいざなうけれど、それのよくない逆バージョンが、「素敵な人だと思っていた演出家がレイプ魔でした」という構造のようにも思える。いい人じゃないかと社会に思われていて、被害者も信じていた相手が、まさか嫌がることをするとは思っていなかったと思う。ではなく、身分が明かされた状態であるからこそ、加害者は近づいてくるのではないか。加害者はその立場の有用性に気付きながら「私」として近づく。おそらく相手が何も知らないただの普通の「Aさん」という情報だけであれば、そもそもお断りができる。立場を利用して、あるいは「立場的に断り辛い状況があることが把握できていない」場合「Aさん」は、ついうっかり「私」として恋愛しようとしたのに、といいう言い訳の元、簡単に加害者になりうる。

立場を弁える、という言葉は、クラスがあがるほど気を遣う必要があるという言葉なのだろう。いつか人狼ゲーム的な遊びをしたときに、偉い立場にいる人が人狼であることを当てられそうになったとき「私は偉いんですよ、どうなるかわかってるんか」という思わず笑ってしまうような態度を取り、案の定人狼がバレてしまうという状況に立ち会ったことがあるが、このときの「偉い人」は、敢えてえらさを誇示している「ただの人間」であるという表現ができており、それだけのやりとりができる場であればハラスメントは起きにくいよなと思った。えらい、という自分の立場がわかっていればいるほど(わたしはえらいんだぞ!という言葉の見苦しさはさておいて)、人狼も容赦なく当てられる関係、嫌なことは断れる関係が作れているのかもしれないと思った。しかし、関係が成立していない中でその偉い人から「どうなるかわかってるんか」なんて言われたら、意見を引っ込めてしまい恐怖を感じた人もいるかもしれない。

⑤私はいま何者かを問う
全ては関係性と文脈でしかなく、人はいつでも「私」と「公の立場」を行ったり来たりする。私がどう思ってるか。立場的にどうか。常に「私」でいられる相手と、そうでない相手が混ざり合って現場にいる場合、たとえば演出家が現場に向かって何か言葉を放つとき。言葉を受け取る人によって、関係性によって受け取られる内容が大きく変わる可能性がある。つい、感情が先走ってものを言ってしまったとき、「立場」のほうがあとから謝罪を迫ってくることもある。

有名人が「私」のときに起こした問題を週刊誌は「プライベートでこんな問題が」と書き立てるが、立場が先立つ現場では当たり前にだれもしないわけで、だからこそ「私」たちは逃げ場が欲しかったり、公の立場で見せないある意味醜悪で見苦しい欲望優先の自由な「私」の姿を誰かに見て欲しかったりするのかもしれない。そのとき「私」に起きているのは、それを許してくれる相手だろうという信頼と期待、場合によっては「こいつなら大丈夫だろう」という見下しだ。そこは心の中を覗けないからわからないけど、いずれにしても欲望というのは「キモい」ものだ。それを許せるか、認めるかどうかは相手次第であり、相手の気持ちを聞かず、丁寧で誠実な関係作りをしようという姿勢がない限りは、あなたや私の抱いた「理想の幻影」のお人形に対しておしゃべりをしている、つまりそれはいつでも「尊厳を奪った人間に向かって暴力を振るう」状態になりうるということなんじゃあないかと思う。

どんなハラスメントにも反対です、と、言いたい。でもそれを言うために、加害者がどう加害者になりうるかを考えておかないと、加害者が加害性に気づけないかぎり、出てきたものを叩き続けるだけでは永遠に終わらないんだろうなという気持ちもあって、色々なことを最近考えていた。間違っているかもしれないし、よくない表現があるかもしれないけど、頭の整理として置いておきます。