胃腸炎でもスタバを飲みたい

急にお腹を壊し続けている。最近忙しかったもんなあとか、精神的負荷もそれなりにあったなあとか、日々当たり前にごろついているストレス対象について、あるなあと認めていても忙しさや疲れや受け止め方の変化でそこまで激しい感情や反発をもたずやってきたつもりで、自身にとってもそこまで大きく感情的に受け止めてこなかったものが実は大きかったこととか、単純に本当に体力の削がれることなどが重なったこともあり、お腹を壊し続けているのだと思う。しかしなんというか意外と楽観的で、ここまで調子が崩れると、逆に何を食べればいいかを苦しむ必要性が減り、少ない選択肢の中で「じゃあ、」と食事を選べているし、なんなら食べれなくても胃腸のためであるからとなにか善いことをした感覚になれることもあり、正反対の気楽さが生じていて、自分のそういうあまのじゃくで面倒な部分が垣間見える。諦められるということが一種の祝福であるとは本気で思うが、ただそのような中でもスタバは飲みたいと思えたので、そういう欲があることがウケる。

これ以上自分も含め誰も苦しんで欲しくはないのに、どうしようもないことは起こり続けている。思い込みや誤解の放置が不幸の起点になっていることをこれまで何度も認識してきたつもりでも、そして自分がいかにバランスを保とうと気をつけていても、思う、をする脳は世界中にいくつもあり、それらへの責任を取ることはできない。起きたことを、どう受け取り解釈するかによって、起きたことそのものの価値が変わるなんてことはこれまであまりにも多く書かれ続けてきたことだけど、それを感動のドラマに当てはめて美しく保つほど歪んだ見方を自分はできないため、複雑で歪な塊をいくつも所持することになる。でも、人によってはそれがダイヤモンドにも見えるだろうし、同じものを汚物だと思う人もいる、なんて自分にとって当たり前のことを「あたりまえ」と受け取れない人もいる。だから嫌われることはもう仕方ないし、それは違いますよと言えるし、わざわざそこに全力をふるって時間を使う必要はないのだ。この分断をこえたり、壊したい気持ちがあったし、分かり合える可能性を信じていたが、まずもって気づいた分断そのものを「ない」ものとするわけにはいかないし、それはそこにずっとある。ずっとあるものといつも戦うことはできない。どこまでもその思い込みで進んでいってしまえる者たち(気づかずにそれをやっているかもしれない自分も含め)の、その前提を支配している常識のしがらみが、少しずつ違う常識をひきうけ、広がっていくとまだ他者の声を聞けるようになるのだろうけど、狭い物語を作ってそれが悦になってしまった場合、自分だったら許せないことがあまりにも多くなりすぎて、物語に反するものを全て排除したり存在を受け入れられないようになるのだろうと思う。それでもまあ、どうしようもないことは起こり続けるので、仕方がない。自分を救う言葉ばかりを探さず、丁寧に周りを見つめたほうが生活は面白くなると思う。

考えたことをここへ記録することを続けてきたが、それは手遊びで遺すくらいにしたほうがいいように思えるなということが続いており、忙しいこともあり更新頻度を下げている。もともと思考整理のための手遊びのような場所ではあったから、変わらず使い続けるかもしれないのだが。古い記録は、私にとっては必要な記録だけど、拙い感覚や言葉や、今とは一切違う考え方が残っている。記録をするということは、それらを「事実」として残すことにつながる。ああ実は違うんですよ今はね、と言える距離の相手ならいいけれど、そうでない人からすると永遠に私だ。言葉に責任を持ちたいという気持ちはもちろんあるが書いた途端から全て過去だ、今後はそれを前提としたい。絶対のものなんてない。って、強い言葉で言い切れるものがほしいときに便利な言葉だね。