大人の事情

最近ではつまらないことの繰り返しの仕事も大切だと感じるようになり、そういった仕事の場合いかに楽に早くおわらせるかを重視してきちんとこぼさずにやれるか、という脳になっている。受注ばかりし続けていると、「納品」が最優先される。デザインと芸術は、妥協点のポイントというか、グラフというかがやはり大きく違うので、「納品」という習慣を繰り返しながら、別グラフでやるべき自分のクリエイティビティが消えずに残っているのかはわからない焦りはある。だが、生きるために積んできた成果でもあり、続けてきた甲斐あって独学でこつこつ生きてきた個人でも大型の案件の誘いがあったり、呼ばれる、というだけでありがたいことだと思うようになってきている。ありがとうございます。実績が表に出ない仕事も大切な仕事だし、とくに最近はデザインごとの実績を表に出さないようにしている。ブランディングを目的としている、という、わけではないが、混乱は避けたい。というのと、昔はSNS上でデザインごとの仕事をとっていたが、今は会社との絡みもあるし、デザインの仕事で稼ぐために積極的営業をしていない(仕事はもちろん受けているよ、大きい仕事は会社通してもらえたらうれしいです、いただける金額が下がっても、会社が育った方が良いので)。

そういう大人の事情、といいながら、別に「大人」に特化した事情でもなんでもないのだがこの表現って不思議だなと立ち止まる。一言で言いにくいことや説明が複雑なことを「大人の事情」と呼ぶのだろうけど、子どもの事情も十分複雑化しているよな、とか急に思ったりして。

稼ぐ、ということに対する視線の変化を感じている。生きるためになんとかせねばという気合いで個人事業をやってきたけれど、今となっては会社もあり、個人の仕事でもある程度生活に失敗しない限りこまったことにならないようになり、大人、として積み上げているなと思う。これは、やはりとても大きな認識で、アーティストとしてよりもデザイナーとしての実績のほうが成果物が現実としてあるので、とくにフリーランス初期の頃なんかは小さな実績ひとつひとつに縋っていたなと思うが今はそれほど思わないし、やれることならやるスタンスで生きているので、早くそういうスタンスに、演劇もなっていくといいし、もしかしたらある側面ではもうなっているのかもしれないし。ただ、新しい事業をやる可能性を考える場合、なににせよもっと回さなければならないという現実はあるなと思いながら、できる限り苦しまない方法で持続する手段をさがしている。

散歩をしながら、あるいはこれまで書いたけど上演されなかった作品のアートワークをなんとなく作りながら、自分の創作物について改めて向き合い始めている。過去の作品や実績に縋るようなクリエイターでいてはいけないよなと思いつつ、それでいながら、大切な本棚に本が増えていくように、よい背表紙を作っていこうぜという変わらない団体方針はあり、去年までそれが、いくつかの作品について、べったり心の問題にくっついていたせいで、大事なものにしすぎているきらいがあった。だいぶそれは抜けたし、20代の自分にとって永遠の謎、のように感じていた、作品との対話も進んで折り合いがついたし、これからどうやって生きていくとハッピーかなとか、どういうものを取り扱うと望みを叶えられるか、という気持ちを、ここに持ち込んでもいいのかもしれんなと今日は思っている。身軽に取り組みはじめ、最後は粘り強く集中する、みたいな。切実さがすぎると盲目になるし。しかし時間がかかっているなあ。走り出しに。というか、作っても作っても没ばかりで完成しない。期待値が上がっているんだろうけど、しっかり粘って作りたい、と、思ってはいる。