話すこと、読むこと、書くこと。

積読を読む絶好の機会だというのに、こころが追いつかなくて本が目に入らない日が多い。でも、いつのまにか手にとると、いつのまにか1時間くらいの時間読書をしている、ということもあるので、おそらくTwitterのタイムラインを追うような、誰かが「焚き火を見る」と表現していたが、そういう気持ちで本を開くだけで、ずいぶん入ってくる情報はコントロールできそうだ、と思う。読むべき本は山ほどあり、それを読む前と後では、きっと見える視野が変わると信じている。変なことにお金をつかったり、塩辛くて味の濃いものを食べたり、アルコールを摂取するよりも、読書は合理的だ。それは資本主義のルールとは大きく外れた合理性だとは思いますが。

豊かさについて時折考える。「食べて往くこと」という作品を書いていたとき、これはある女性が、いいところもわるいところもある一人の女性が、自分のものさしを決め人生と向き合う姿を描いた話なのだが、彼女のなかでは「おいしいものを食べる」ことが、ひとつの豊かさの指標となっていた。その感覚は、私の中にも少しはあるが、一日にコーヒーを飲み、サンドイッチを食べ、プロテインを飲んで食事が終わるようなシーズンが時折おとずれる自分には、そのものさしは多分一致はしない。

結局のところ、精神的な安定をもたらしたのは、思ったことを言える相手がいる、安心できる関係性があるという事実で、フェアである、ということでしかなかった。1時間だけ会って友だちとお茶をして、いろいろしゃべって。みたいな、そういうことがあるだけで、もうかなりいいなと思える。でも深夜ひとりになると、感情がばたついてしまうことが続き、だめだなと思う。朝起きられずにいると「夜更かしのしすぎだよ」と言われたりして、そんなーと思いながらも、その忠告に救われたりする。深夜本当にだめだと思ったらロサンゼルスにいる友だちに連絡するんだ、と、時差をいいことに、そういう保険をかけたりしている。やさしい、をくれてありがとう。

まあそんなことが、健康で文化的な最低限の生活の下地になっているにちがいなくて、その上でじぶんは、あきらめずに作品を書く、を続けなくちゃと思って、改稿をし、新しいものをまた考えている。そして、そのために読んで、作りながらいろんなものを入れていく、をくりかえす。前は、作ってる最中に何かを入れることが怖かったけど、前作品を作っていた最中にある戯曲の本読み会に参加した時、自分の文脈でいろんなことを考えるきっかけになり、人と喋ることも大事だけど作っている最中に本を読むのもいいことだと明確に経験した。

中学生の頃からインターネットに生息しているせいで、生活の地続きのように感じるが、インターネットは、ソーシャルメディアは現実とは別の世界だよ、と、今日言われた。たとえばみな、誰に見せても大丈夫な綺麗な部分だけ切り取って公開するわけで、制限された情報の中で、私の頭の中を知っている人も、世界の真実を知る人も、現れることはない。真実がわかったぞという気がする状態は傲慢さのそれでしかない。なにもわからないということを知り、これはなんなんだろうを考えるために、話すこと、読むこと、書くことをやっていくほうが多分楽しいので、真実めいて書かれているインターネットのもろもろに、いちいち傷ついてしまうのをやめたいよなと思う。