不安と一緒に舵を取る

季節が変わった。あつくだるい日本がはじまってしまった。「ころげおちるように、」と会った人が言っていた。転げ落ちるように夏が来た。すごくいい表現だなと思う。その日は、3人で民主主義や資本主義やフェミニズムやコミュニケーションの話を3時間以上ぶっ通しで話し込み、最後に「エンパワメントしていこう」と、はじめて対面で言い合った。そう、今自分は、フェミニズムやエンパワメントという言葉を対面で、インターネットの世界ではなく目の前の人間と、躊躇なく話すことができている。これはものすごく大きな変化なんじゃないか。ただし変化はいつも劇的でなくじわじわといつのまにか起こっているものなので、日々はいつもなにか重苦しく、不安で、なにもできていない、なんの進歩もないような気分が支配する。


行き詰まりを感じると本を買ってしまう癖がある。始まりは新卒時代にストレスがオーバーヒートしたとき、ジュンク堂で急に3万円分買ったことからだった。本を買うことは世間一般に良いことと持て囃されているが、これこそが一種の信仰と呼べる気もする。そしてその信仰の実際は、その金額を使うことで「自分が変われるかもしれない、これだけしたんだから」という興奮材料で脳がちょっとおかしくなっている時間とかそういう部分もあるのだと思う。つまり、情報を脳に通過させることで進歩があるかもしれないとか、より良いものが書けるかもしれないとか、心が救われるかもとか、まだ人生で何か(本当になんなのかはわからないが)偉業を成し遂げられる可能性につながるかもしれない、などという打算的な、見返りを求めている。情報に見返りを求めるようになった人間はamazonで星を探す。まあ確かにレビューは面白いけれど、本の価値をはかる数字ってなんなのか、と思う。芸術でそれされたら一番いやなやつじゃんね。そう、でも「3万円分」という数字のほうが残り続けるのだ。何を読んだか、という本の内容よりもわかりやすくくっきりと。

(すごくどうでもいいが冒頭からここまで3という数字しか使っていない)

資本主義がモノの価値を無意味な数字に均一化させてしまったことで人間はどんどんつまらなく打算的になっているんじゃないかと思う。測れないものを作りたいのに、数字に支配されすぎている。納期までの時間、報酬の金額、住むためにいくらいるか、もう何年創作できていないか、何歳になるのに、なにもかも、なにもかも、追い詰められるような気持ちに……なる。

話を戻して、まあ本に限らずいつだって「買う」の行為の裏側には、何かの行き詰まりを感じているような気分がついてくるし、愚かな打算感はいつだってあるし、でもだんだんそれも言語化できるほどには飽きてきているので、とくに最近は、「それで、本当にしたいことは?」「本当に知りたいことは?」と、こころが向かう、魂が向かうところは一体どこなのだろうかと考えるために本を読んでいると思う。結果、それがしたいことになっているような気もする。本を読むことで気づけることの多くに、答え合わせ(既に持っている思想の強化)的な感覚があることには、若干の不安を感じつつも、自分は何を「ただしさの軸」とするか、が、見えてきているから、それに向かうことができているのかな、そうだったらいいなとは思う。あっと驚くような劇的な発見を感じさせてくれる情報は、SF小説とかミステリー以外あんまりない。

そういえば最近、劇的、がひとつあった。某所で父親の書いたテキストを見つけ、それを読んだことで(個人的なことなので内容は控えるが)過去が少し変わるような体験が起こった。同時期に見た映画「カモンカモン」も、それを手伝った。その時に言われて感じていたことと、今あらためて何を感じるかは、変わることがあるよなと思う。家族のことや、これまで起きたさまざまな人間関係をふりかえり、失敗を苦しみ、被害者モードではなく前に進んでいく気持ちになれるように、やっとなってきたのかもしれない。だからより不安で、今までのように「対応」するばかりではなく、自分でこれからの舵を取る必要があるために、大きな可能性と不可能性の前でうろたえてるんだろうとも思う。それで、本当にしたいことはなんなのか。何を幸せと思うのか。これから人とどんな関係をむすびたいか、コントロールができないものたちとどのように接するか。不安だけど、それが消えることを望んでいるわけではない、考えながら日々を続けることはそう悪いことのようには思わない。