生活の中で生まれる罪悪感について

天ぷら油を流しに捨てることができないから(新聞紙で吸ったり、テンプルを使わなきゃと思うから)天ぷらができない、とある人に言ったら、「えーー流しちゃえばいいじゃん!」と言われて、「うわあそれは無理私にはできぬ!」という反応をしてしまったことがある。それは、自分の罪悪感ラインではすごく悪、になっていて、もちろんきっと褒められたことではないんだけど、多くの人はバレンタインで失敗したチョコレートを流してしまう(それで水道管が詰まったりして大変なのだとどこかで読んだ)し、牛乳だってヨーグルトだって流しちゃう人は流しちゃうんだろう。でも、自分にはどうしてかそれができない。なぜ。洗剤だってバンバンながしてるのに、なぜ。そういう生活の罪悪感というのは、知らないうちに自分の中で作られているルールなんだろうな。っていうか、水道局ってすごいな本当に…。

きのう、朝型・夜型は遺伝子レベルで決まってるので抗えないよって友達に教えてもらって、今日その元の記事を読んだ。たしかに私は夜眠れなくて、作業して、翌朝というか昼に起きて活動する方が多い。明らかに多い。ときどき早起きできるととても嬉しいけど、無理して起きようとして無理だったこともたくさんある。予定がなくとも、午前中までに起きれないと「早起きできない自分」に対する世の中への罪悪感みたいなものが強くあって、今日もこんな時間に起きてしまった……という気持ちが一日を暗い気持ちでつつみがちだったけど、これを読んで眠れるときに寝て起きれるときに起きたらいいんだとかなり心が楽になった。待ち合わせで寝坊することはほとんどないし、意外とこの体はうまくできているのかもしれない。

ご飯を食べない罪悪感もある。別にお腹が空いているわけではないまま、今日も何も食べてない現象。これはさすがに死ぬよとさんざん言われるので、とりあえず口にできるものを常備している。今日はてっとりばやくカロリーを摂取するために起きてシナモンロールを食べた。どうだ、てっとりばやいだろう。しかし、食事に対してまで罪悪感を感じているのかと思うとまだまだ修行が足りない。毎日うめーものを求めていきたい。当日ツイッターで誘ってくれて飲みに行ける友達ができて、なんかとってもうれしい。一日誰とも話さずにいるのは罪悪感ではないけど孤独、だからね。孤独のグルメは好きです。