購買と所有と経験

所有という概念について、引き続きとても考えている。似たことを書いた気もするけど再度書く。この3年で生活の更新をこころみて、使用するものを変更する、あるいは生活習慣を変える意味でさまざまなものを試したり、色々な服を着てみる体験をつづけていて、自分を見つけたり、表現したりのためにものを所有をすることは好きだと思う。ここは自分の場所だ、この服は自分が選んだと思える生活をつくりたい、みたいな気持ち。なんとなく買う、は極力減らしたい。その分処分も大変になるので、むずかしいことも多いけど。

先日おしえてもらってやったムーミンのキャラクター診断の質問に、「モノ」か「経験」か、というものがあり、すこし立ち止まった。どちらも大事な面があるけど、自分はどうだろうなと。でも、結局モノを買うときも、それで得られる経験と交換しているのではないかと思う。

お金を出して「買える」という公平性にはとても感謝している。あたらしく我が家にやってきた照明は、私が持っていて本当にいいのか迷うほどかわいい。そんなものを「お金を出すだけで」手に入れることができる。もちろん、出会う、選ぶ、買う勇気、いろいろな状況やタイミングが絡むけど、それでも「出せば」買えてしまう。そして、この世には幸いなことにお金を出しさえすれば手に入れられるものの方が多く、買う、だけで手に入れられる経験は心強い。

たとえばアーロンチェアを買ったことは、仕事への認識を大きく進めた。あくまでも私は仕事をして生きていくのだという覚悟を、書き続けようという勇気を、じっさいとても強く認識しながら購入した。バイクも、macも、マイクも、iPadも、自分の生活をアップデートするために、選び抜いて買ったもので、ただしそれは「買う」だけで、手に入れることができた。もちろんその「買う」行動のためにかつて仕事をがんばっていたのだとおもうけど、かつてのがんばりという記憶はすぐに消えてしまうので、たとえば努力の結晶とかいう言葉があるけど、決してそういう感覚もなく、ものはものだと思う。

お金を出して経験できることは、とてもありがたいし、生活を快適にする。やっぱりいつかドラム式洗濯乾燥機が欲しいし、やっぱりいつか食洗機が欲しいとは思っている。今の部屋では、どちらも難しいと思うんだけど。

ところで、ハイブランドの鞄をひとつだけ持っているが、先日それを持ってそのブランド店の前を通りかかった時、本体は後ろに隠れており、前にはチェーンしか見えていない状態だったし、店に入る気もないのに、通り過ぎただけで店員さんは私に礼をした。(本当に、そんなに気づけるか?というチェーンだった)そして背後にある鞄本体(それも、わかりやすいブランドロゴがついているものではない)を確認し、再度深々と頭を下げた。そんなことしなくてもいいのにという気持ちはもちろんなのだが、それ以上に「通り過ぎる人間のチェーンだけで自社商品に気づいて会釈する」という接客にびっくりしてしまい、接客業の本気というか、とても感動した。果たしてそれが自分の人生経験に必要なものかと言われるとわからないし、だからといってすぐまた買うぞ、とまでは思わないけど、このブランドはそうやって人が「買った」という行為に、顧客に、事実敬意をもっている場所なんだといううれしさがあった。これは本当にお金を出さないと知ることができなかった。

ただ、お金を出しても手に入れられない経験というのがこの世には存在している。そちらの方が、むしろ自分の人生には絶大な影響を及ぼしており、ある意味で「不公平」なことだと思う。生きていて、環境が違う、出会える人が、残せるものが、話せることが違う、など。最近知り合った友人と、仕事でよく話す人たちの、居場所のカテゴリというか、今まで出会って親しくしてこなかった「界隈」と出会えたことはとてもうれしくて、いくらお金があってもきっとそういう経験にはならなかった。演劇をする高校生たちと出会えたことも。幸せは生活のなかで得られる経験と、信頼できる関係のうれしさの積み重ねで作るものだとも思う。

そもそもまだ演劇をしていると自負できることや、デザインの仕事がくることや、ときどきナレーションができていることや、ずっとつづいている交友関係は、お金があったからつながったものではないし、これは当たり前なのかもしれないけど、今もっている全ての物、を失っても生きていける。路頭に迷わないような自信がある。それと、こっちに関しては「かつてのがんばり」を褒めてあげたくなる日がある。やれちゃった私えらいねえ、って。もちろん同じくらい、なんでできないのだとか、なんて頭が悪いんだと落ち込んでしまう日も多いのだけど。