解像度とレイヤー

労働に次ぐ労働で根を詰めておりすこし草臥れている。ただ、やらなくてはいけないことに対する精神的負荷というか、ビビりが今までより減っているような気がしており、重たいんだけど対応可能かも、ぐらいの重さ。ヘトヘトになったら今年一番のラブリーソング「緑酒」を聴いてこころを癒しつつ、すきな人間の写真とか眺めてこころを癒しつつ、うまいパンたべつつ。

仕事しながら、この3日間は打ち合わせ等で気をつけながらいろんな人と会っており、先週のぎゅっとした一週間からまたちがう景色がどんどん広がっている。みんな声を掛けるタイミングが見事にちょうどよくてありがとうの気持ち。深く狭い交友でありたいんだけど、狭さが年々広がっていて、親しみを感じる人たちが増えていくのはとてもうれしい。でもちょっと、ゆっくりしたい気持ちも、ある。

忙しさの中、自分で締め切りを作って行動することができるひとは本当にすごいなと思う。もっと創作に向けたいと思うし、歩いている時にひゅっとあれをしよう、みたいなことがやっと湧いてくるモードになっているのだが、なかなか捕まえるのがうまくいかない。ブログは、とりあえず書くかみたいな気持ちでゆるく習慣化しているけど、でもこのブログ、ひたすら書いているわりに何が返ってきてるかわからないんだよね。まあそれはそれで、コンディションの把握ともいえるし、いいのだけど。

そういえば最近よく自分の中でトレンドというか、いつのまにか出てくることばに「解像度」と「レイヤー」という二つの言葉がある。トレンドといっても、この二つと親しみは中学生、はじめてPhotoshopを手に入れた時からの仲なのだが、それをPCではなく生活の中の気づきに落とし込み、実感としてなにかを語るときに「解像度が上がった」感覚とか、「あたらしいレイヤーを手に入れた」感覚が生まれているなと思う。とくに今関わっているクリエーションに参加して、今までとは違う文脈で演劇を捉え直していくときに、自分のインターネット大好きな面とかデザインへの親しみをはじめ、他にも好きなアニメとか海外旅行の記憶とかいうアイデンティティを形成するいろんな積み重ねを、創作に使っていいんじゃないか(逆にいままで、自分を出さずに、演劇のフィールドでは演劇のこと、のような謎の線引きをしていた)ということに気づき始めてる。単純に、今まで通りやるのが、つまらなくなっているのだとおもうし。だからといってどうするとか、まだ考えられてはいないし、自分にとっての王道な舞台をつくりたくないとまでは思っていないけど。

で、今の感覚でこの「レイヤー」と「解像度」について書いてみると、レイヤーを増やすのはそうそう簡単なことではなくて、人との出会いとか、経験とか、興味とか、自発的能動的に自分が求めていることと組み合わされないと出会えないもの、という認識がつよい。自力で視野を広げようとしてここまでかとなったときに、あらたなレイヤーをもつ人間が現れる、みたいな感じ。

逆に、解像度については、一種の努力というかインプットの精度、気づけるようになることを増やす意識の積み上げがとてもひつようなんじゃないかと感じている。サボると、止まる。そして感覚が老いていく感じ。上げていかないとまじで止まる。これは、とくにデザインの領域でわかりやすいのだが、去年作ったものの粗が今年見えていないと相当まずい。批判的な目で見続ける必要があるし、あらためて「自分がお客さんだったらどう感じるか」に気づける必要がある。ここでお客さんは何を感じるだろう、を綿密に感じとる力、かなあ。

解像度が上がると、1ピクセルの中の情報量が増える。それを増やして増やして増やし続ける、無限に増やせる。人間の目、脳は元々良すぎて、いろんな情報を感じ取れる。自分の解像度では太刀打ちできない相手がたくさんいると思う。まだ。怖いけどがんばんなくちゃなあ。