歴史とドラマと共感性

歴史をどう捉えるかについて今日話していて、茨木のり子の詩「わたしがいちばんきれいだったとき」を読んだときに感じたことを思い出した。初めて読んだとき、生きる時代の全く違う女性の詩にえらく同化して読んでしまい、その景色が浮かび、歴史が記録ではなくて記憶であるという実感、自分との結びつきを感じることができた。「この世界の片隅に」を観たとき、確かにとても感動したのだけど、それよりももっと強く引き寄せられる、というか「私がそこに立ってる」みたいな同化を抱いた。そういう同化をついうっかりしてしまうことで、遠くのものを引き寄せることができるし、それがドラマの役割とも呼べるのだろうかと思ったりする。共感性。

もうひとつ、木下順二はカタルシスを「価値の変換」という言葉であらわしており、浄化、「銭湯に行く」感覚になることではない、と言う。このことについても考えたい。たとえば私が10代最も影響を受けた作品の一つに少女革命ウテナという作品が存在していて、そこで描かれていることを咀嚼し、理解し、「革命」するために20代の中盤まで考え続けなければいけなくなった。ディオスがなぜあのように描かれたか。アンシーがなぜ、あの行動をとったのか。そしてなぜ、ウテナはいなくなったのか。初見大混乱の最終話で、「いなくなったのではなく、あなたの前から姿を消しただけ」というアンシーのセリフに、頭をガツンと殴られ、そのことばかり考えなくてはならなくなった。それはおそらく私にとってのカタルシスであり、私はそれを理解するために自己を否定し、大きく遠回りをし、「ウテナ」的に言うと「革命」する勇気、自分の状況を変えるために一体いま何をすることが、革命、になるのか、を考え続ける必要が生まれた。

まだ見ている途中だが「進撃の巨人」についてもきっと同じ要素があるなと思っていて、作者が「読者に傷ついてほしい」と言うこと、つまりそれは木下順二的「カタルシス」を読者の頭の中に産み落とすことなんじゃないかと考える。価値観を変える。ショックを受ける。後頭部を思い切りなぐられる。そういう作品との出会いは人生を変えるよなあと思うし、誰かにとっての「それ」を作れないかとまだ思っている。

ドラマは共感、同化をもとめる。同じでない者同士を一時的に同じ、にして、視野を突然大きくひろげる。「トリシャは俺だ」とナランチャが言う(ジョジョ5部でとても好きなシーン)姿を見て、私もそうだと思う、あるいは共感し、その要素が全くゼロでも、視聴者が能動的想像をする可能性をあたえる。

歴史とドラマと共感性について。ちょっともっと、しっかり考えていきたいと思う。