やさしくないのがやさしさ

だれもが加害者である可能性を、意図せずともいつでも加害者になることができるということは、すでに東京事変が歌っているので、自分にとっては当たり前の感覚なのだが、当たり前ではない人がいることをあらためて思い返す必要のある一週間だった。私は気づけるから大丈夫みたいな安心をしたいわけではなく、生きていると本当に思わぬところに認知の歪みが転がっており、気づかないうちに自分の首を絞めているかもしれない、ということ。自分一人ではどんなに気を配っていようと気づけない可能性があり、そういうときにバランスの取れた知人に声をかけてもらえるかどうかが大きく命運を左右する、というか。そういう意味では私は本当に恵まれていると思うし、何度でも頼んでいる。変なこと言うようになっていたらよろしくねと。

一番近くで私の創作をみている人間はだいたい私に優しくないことが救いだと思う。加担しないし、あんまり褒めてくれないし、むしろ苦言を呈してくる。それはどうなのって。そしてその苦言の言い方も「なんとなく」ではなくて、今こういう事例が世にはあるのだからという、進むための意見であるのでとてもありがたい。あとはそのサイクルがなあ、まわっていけばいいんだけど、やっぱりおんぶに抱っこでは進まないし、なんのためにやっていくのかは何度でも確認し続けたい。当たってるわけではなく、目的のためにやさしくない言葉をくれるひとは、いちばんやさしくあたたかい。できれば時々はやさしくしてほしい。ただし、これを私が「される」分には強い信用で結ばれた関係の上だという実感があるからよいのだが、「する」分には気をつけなければならないのだ。すごくむずかしい。

なんとなく流れてきた動画のメイクアップアーティストが「眉毛は意思を伝えることの手伝いをしてくれる、言語で意思を伝えることはスキルが必要だけど、意思のある眉毛はコミュニケーションを助けてくれるのよ」っていうニュアンスの言葉がとつぜん流れてきて、急にとても感心してしまった。人間はそうして化粧をすることで社会とのコミュニケーションの努力をしているのだな。昔は人のつりあがった眉が怖かったけど、今はそれほどでもない。人間とコミュニケーションする可能性を、私はどちらかというとメイクの前に言語で身につけることができたのかもしれない。まだまだ失敗続きではあるけど。

話し続けるしかないし、誤解が生まれている部分は解いていく必要がある。そして意思をつたえていく必要がある。人と仕事をするというのはどんな現場であれ言葉がいる。それがたとえ家にこもってやる仕事であれど。むしろ顔を合わせない時こそ、言葉、しつこいくらいの言葉、が、必要だと思う。