旅をして気づいたこと

この夏、アーティストとつくるで子どもたちと演劇を作り、天川村に行って、利賀村に行って、そして今まさに実施か中止かに揺れている企画のなかでずっと考えていた、自分の創作の根幹についての考察のつづき。まだまだ途中だと思うけど、速報的に今いちばん熱く感じていること。

利賀に行って「話には聞いていたこと」を実際に体験したことで、ずっと考えていたことに対する整理を再度できたというか、つくるぞみたいな情熱が自分の中のどこにあるのか、世の中に関係なくどう生きるかを改めて選び直す時間になっていると感じる。去年、コロナうつのような状態になっていた時は「作家として外に出なくても森にこもって小説書けたらいいのかも」まで思っていたけど、やっぱり会うこと、劇場にいくこと、人生を使ってその場に身をおき時間を過ごすことの影響とかその体験が人生にあとから響いてくる可能性とかも含めて、選ぶべきは演劇だなと思い直した。演劇が自分にどうして必要なのかを確認した。あの時はまだまだ本当に手探りで、社会の中で演劇を続けるために「認められないといけない」と強く思っていた。演劇部の指導も始まり、結婚式の脚本も、映画の脚本も、そのほかの活動も、結構そういう思いを後押ししていた。

もちろん社会の方を向き続けていかないといけないのは事実で、でも「認めてもらう」ことって実際にやりたいことではないと、利賀に行って本当に改めてはっきりしたし、今自分の生きている、周りにいるアーティストの姿を見ていて、何が重要なのか、自分の思想はなんなのか、どうしてやるのか、本当に考え続けなきゃなあ、勉強しなきゃなあと。

そして、団体も過渡期を迎えており、今とても話すこと、対話することを重要だと言い続けている。うちの団体はシスターフッド的関係の中で進んでいるなと先週Twitterで書いて、それはまさにそうだなと思っていたのだが、このまま作品を作っていくことが可能なのだろうかという不安はいまだに続いていた。お金もかかるし、リスクをとってまでできる環境にないのではないかと。それだけでなく、自分の作品の強度がまだ理想に届いていないのにやっても、楽しかったねで終わるのではないか。楽しかったも悪くはないが、正直そんなことのためにやってないぞと。利賀を見て舞台のスケール、観客への影響力、伝えようとしている思想、演出として最強の花火、どれもが大きく、「自分のやってきたことはこんなにも小さいのに、なんでやるの?ジェンダーとか、もっと小さな心を取り扱うなんてこと、やったって社会に大きな影響を与えるわけでもないし、自分はもうやる必要もないんじゃないの?」と問いながら作品を見ていた。

帰りの車の中で、それでどうしてその「シスターフッド的」な場を自分が欲しているのだろう、とか、なぜ社会に対して干渉したいのか改めて考えていた時に、本当の大元の大元は、自分の子ども時代に抱いていた不幸と、家族とか、誰でもいいから間違いなく信用できる相手がほしかった、やさしくしてほしかった、家の扉を開けるときに「今日はどういう立ち回りでいれば安全か」なんて考えなくていい安心が、思ったことを話せる場所がほしかった、困った時に頼ったり助けたりできる姉妹になりたかったという(今では母も姉もとてもすきだが)、ものすごくシンプルなひとつの答えが浮かんできて、私は安心できる家族が欲しかったんだと。もちろんそれだけじゃないんだけど、このインナーチャイルド的いくら癒しても癒せない、厄介な感情に気づいて、おいおい初期衝動、そんな個人的なコンプレックスかよ、と絶望していた。

しかし、その瞬間に車の中で横に座ってた人間が眠りながら肩にもたれてきて、私はそのように無意識で他者に頭を預けられるような人間には育たなかったけど、その安心を、愛情を、何らかのルートで正しく受け取り続けた時間があるという人生に触れたような気がして、そういう暖かさに無性に大泣きしそうになり、大変重い頭だったが、めちゃめちゃ勝手に想像して勝手に救われて、実際ちょっと泣いた。きっとこの世には、人を信じられるほどの愛情を受け取って大人になった人間が確かにいるんだという事実に。

逆に言えば、母とのことが確実に私の創作にはつながっているし、母がいたから私は創作ができている。だからこんなちっぽけな人間の心のコンプレックスとか社会のなかではぐれてしまった人、今にもはぐれそうな人を形にしているんだなと思う。え、でもそれって行政の仕事では、みたいなことを作品にして、人間のちっぽけな心のことなんか書いてどうするのとも思っていたけど「心が人間を行動させるし行政っていうのも人間だよ」と、マイラブリーフレンドふくださんによる思し召しを受け、社会っていうのも人間だから、そのひとつひとつの心にちょっとだけなにかを与えていくことをしたいと思った。これが自分のお節介であると思うし、心理屋になれなかった自分が選んだ将来なんじゃないか。父親みたいに心理学にいけなかった自分を悔いていた時期もあるけど、結局人の心をとりあつかっているんだ。

きょう話していて、今年、このシーズンが転機になっているのだとすごく思う。私はもっと勉強しなければいけない。なにをやっていくか、どういう立ち方をするかを表明していかなきゃいけない。それは社会的に認められるとかそういうことのためではなくて、本当に自分が人生をかけてやりたいことをつかむために。