上質な或いは不完全なパーツとの関係性

2022年にやるべきゲームが決まってしまい、それをプレイする環境が思いもよらぬ形で整ってしまったおかげで、引きこもりをさらに極めそうな気持ちでいる。気がつくと何時間もプレイしてしまう、ハマってしまうのは、きちんと報酬の起かれ方が計算されているからだと知っていて遊んでいる。少し難易度の高い目標に挑戦する、レベルアップする、入力操作をいつのまにか習得し、感覚的に遊ぶ。演劇のplayとゲームのplayはどうちがうのだろう。指先で入力し画面上を展開するきっかけをあたえるゲームと、身体全体で入力・出力をする演劇。没入しながら体全体は止まっているという状況はどちらかというと脚本を書いているときのフォームそのままのような気もする。産むのが達成感か成果物かの違いで、作れたとしても達成感が得られるかどうかはやってみないとわからない。中途半端につまんでやるというのが最も脳に刺激がいかない気がするので、きちんと集中して取り組んだ方がいい。書くことと読むことは繋がってもいて、今やっているゲームにも「読む」「認識する」「出す」、というサイクルがある。これも、読書からのアウトプットや(そのまま話す/ブログに書く/熟させて戯曲に書く)、ツイッターを見てなにか反応すること、と同じ動作になる。ゲームでは行ける場所など可能性に限りがあったりするけれど、限りがあるのは現実も同じだ。明確なお膳立てをされているか否かという違いで、原因と結果が起こるべき可能性の範疇で繰り返される。どんなに上質で作り手の存在を窺わせないプログラムもすべて人間が腕で指で書いているし、いまここにある社会の状況も、人間の手で計算した数字で表すことができるのだろう。創作をしていると、決まっていることを見つける、摂理を見つけるような時間がある。やりたいことを通すためには何が起こるべきか、なにが「自然」か。よい作り手であればあるほど、安易な設定やよくわからないけどたまたまそうなった、という「芸術的」と称される物語にきびしい。それは芸術的とは呼ばず感覚的と呼ぶべきで、では感覚はどこから生まれるかというと脳からで、ひとつのアイディアを愛しすぎ、しがみつきすぎるとたとえアイディアが宝石のように輝いていたとしても周辺が焼け野原のようになることが多い。突き抜けたものを発揮するためには、裏ではぱちぱちと綿密で地道な辻褄合わせをしながら今「この人間」がここに立っている目的、理由、摂理、必然を仕立て上げていく必要がある。シャツのパーツは21個あり、良い鞄は小さいものでも50個以上のパーツで作られているし、人間の細胞の種類は270種ある。ゲームも戯曲も演劇も、そうしてパーツを組み合わせることでつくられるのだと思う。ここで、上質なパーツ、と書こうとして、人間にとって上質なパーツとは、と考えを止めてしまう。上質なパーツでできた上質な人間は上質な人生を歩むのだろうか。そういった人間はたとえば演劇の中で上質なパーツとして使用されるのだろうか。逆に、欠陥やアンコントロールドな状態をもつ存在、を作品、物語の中に計算して効果を考えた上でパーツとして埋め込む、その役を取扱が簡易で上質なパーツが取り組む、という人間の暴力性にどれほどの人間が向き合えているのだろうかと思ってしまう。こう表現することはとてもしんどいが、演劇は人間をパーツとして取り扱う。そのパーツが上質であろうと、不完全であろうと、時間を拘束し、身体を使って取り組むよう命令をする。その暴力行為を、ごめんねごめんねえと言いながらずっと行い続けているように感じる。いいものを作る仕事なのだから謝るなとも思う、だが、どんなに信頼関係がある上でも、自分には、どこかその暴力性を過剰に引き受けなければならないという覚悟を要する。パーツは壊れたら取り返しがつかない。たとえば本当にお気に入りの鞄であればパーツがひとつ取れてしまうくらいでとても落ち込んでしまうから物への執着をできる限りしないし捨てることへの軽さも自分を守るために持っている。身を切るような別れはモノでもヒトでも同様におそらくほぼ変わらないダメージを与えてくる。だけど取り替えられるパーツは変えていく必要があるし、自分を維持するためのパーツはできる限り少なく・丁寧に管理し・別れの時はさわやかに軽い気持ちで、或いは後悔のないようにしっかりと、中途半端がないように取り組む必要があると感じている。その取り組みの結果作られたクラフト・関係性が、どのような着地をするかは置いておいて。

ゲームの話から当てもなく自動筆記のように書いてみたところ、関係の結び方の話になっちゃったな。