演劇をつかって何をしたいのか

数年前、とてもお世話になった方と再会し、4時間もしゃべりつつけてしまった。こんなに話し続けることは久しぶりで、そしてそれだけ話せることがたっぷりあることがとてもうれしかった。

最近ここへの記録をせずに、自分の内的な記録は小さなノートに万年筆で残すことが多い(いただいた万年筆が使いやすくて毎日使ってる。横浜でクリップも買った、とてもうれしい)のだけど、手で書くには長い文章になりそうなので、ここでアウトプットしてみようかなと思い手を動かしてみる。

「演劇」をしたいのではないということは、はっきりしていた。はっきりしていたし、わかりきっていたことだ。やりたいのは演劇をつかって表現したい題材がある、社会に映し出したいものがある、ということで、だからこそいつでも無理をしてやる必要はない、特に、いまコロナ禍で作品を創作することはリスクの方が大きく、お金もかかり、人も呼べない。そして題材に対し、自分がやはりすこし諦めている、社会に対してあきらめがあり、疲れてしまい、自分と、自分の周りの人たちだけでもすこやかであればそれでいいし、それ以上他者に踏み込んでしまうことでよくない結果が出てしまう、という経験もあって、しばらく、まずは自分の生活を、健康で、平和で、愛すべきものを愛してやっていこうと思っていた。

そして、その生活へのこころみは結構うまくいき、私は自分の生活を(もともとそうだけれど)とても気に入っている。関わる人、食べるもの、過ごす場所、いろんなところにお気に入りを見出し、困ったこともそう多くなく、苦しみも減ってきていると思う。生活はできているし、幸福を持続させたいし、未来を目指していきたいと思える。朝も前よりずっと起きている日が多く、夜はきちんとねむり、すこやかだ。

その守ってきた、築いてきたすこやかさの対岸に、たくさんのものが見える。私個人のすこやかは別にいつでも守られていいと思っているし、それでいい。そのうえで、自分の目に見えているもの、自分がつくりたいと思えるもの、もうすでにわかっている、みんな知っている、わざわざ言う必要のない、社会のことを、あえて出すことが芸術活動なんだろう。それを行うために演劇をつかっているだけで、言うことがあるから、やるってだけなんだと思う。言わないといけないことがある、それは、Twitterで言うこともできる。でも、それが140字ではどうにもならないから演劇があるんだということは、今までの作品作りで気づけている。

演劇でつくられるもの、立ち上がるものは社会を映す鏡だと思う。昨年部分的に脚本提供をした作品は、いつのまにか2シーン、3シーンを切実な気持ちになって書いていた。少ない稽古期間だったが、ことばは俳優たちの肉体を通って、散漫だった会場はその時間突然静まったように感じた。これは私だけの感覚なのでもしかしたら勝手な思い込みかもしれないけど、その俳優たちの実感も同じだったようで、今を生きている人間のこころが、映画「ドライブマイカー」の野外稽古中のワンシーンの様に演劇を使って映し出されたように感じた。それが私にとっての演劇のきらめきで、だからこそ去年は公演ができなくとも、演劇をやれたという満足感があったのだと思う。その仕事は、本当にたまたま、たまたま自分がそこにいて引き受けただけのことなので、相変わらず実力が上がった実感はないが、その時期に同時進行で関わっていたもう一つの作品からもらった影響もあわせて、自分の思想が前よりもずっとはっきりしてきたような気がする。

そして、今までは「決めきる」ことに対する恐れというか、可能性の示唆のみとなっていたもの(それは、やはり自分はどこか間違っているのだという不安とか信用のなさからきていたのだが)を、もっとはっきりさせた方がいいんだと思う。私が何者で、どうしていきたいかを明確にするために。

少し、また演出をしたいとも思っている。やりたいと思っている作家たちのことを考えると、手に負えないだろうなとも思っている。でも、やりきった結果失敗した、になってでもいいから、やったほうがいいのだろうな。環境がどうであれ、時代がどうであっても、未来に絶望したくないよ。