「幸福な山羊王子とおひめさまのはなし」のはなし

「幸福な山羊王子とおひめさまのはなし」12月公演・2月公演が終演した。(関係者のみなさま、ご協力いただいたみなさま、お越しいただいたみなさま、誠に、ありがとうございました。)

灯台とスプーンの簡単な紹介と、今回の作品の紹介

灯台とスプーンは、「何かに困っている、とらわれている女性」を主に主人公にすることが多く、できれば不安を抱えた女の子(に限らず。これはたまたま私がかつて不安を抱えた内向的な女の子だったので)が少しでも生きやすく、少しでも未来に希望が持てるような作品を作りたいと思っている。

「幸福な山羊王子とおひめさまのはなし」には、えつこ、けいこというレズビアンのカップルが登場する。彼女らに育てられ大人になったつぐみという女性が主人公である。そのほかに、トランスジェンダーのアトリという人物と、痴漢被害の記憶が大人になって湧き出てくるもとこ、という人物が登場する。本筋は児童文学作家であるけいことの別れの儀式を行うつぐみの物語だが、その中でそれぞれの人物の思い、それも「性別」に関することが色濃く現れるように作った。

性をあつかうのはそれなりの勇気がいった。それを役者さんに演じさせることも。私の認識の中にもきっとまだまだ無意識の差別があるかもしれないという可能性や、お客さん次第で受け入れてくれる人、反発を抱く人がいるだろうなと思った。現にひとりの方から、「私は大丈夫だがお客さんを選ぶかもしれない」というアンケートもいただいた。ただ、12月の公演を終えて、これはただのひとつの家族の物語にすぎないと思えたし、伝えきれなかった部分(特に、アトリの性について)をもっと描きたいと思って2月はシーンを追加した。もしかすると重大な誤解が生まれるかもしれないが、そこまで考えたんだから、出さないよりは絶対に良い、気づけなかったところはお客さまに叱ってもらおう、と思った。

さらに言えば2月は、2チームで全く違う演出を行い、連続して2会場という役者さんやスタッフさんに大変な無理をさせてしまったので、ちょっとおかしなアクセルのかかり方になっていたかもしれない。

 

 

対話ができない、話の通じないくやしさみたいなこと

システム化された世の中は、楽だ。会話をしなくてもまわるし、理解し合わなくても生活ができる。面倒ごとはぜんぶ効率化してしまって、考えなくてよくすることができる。でも、それによって少数派が苦しんだり、悔しい思いをしていることがある。奪われたくないだけなのに、「普通の人の普通」が、叶えられない人がたくさんいる。

その不幸は、「理解」があれば少し変わっていくことはなんとなく知っている。他者と「理解しあう」状態は、対話の先に生まれると思う。でも、対話はおなじ目線に立たないとできないこともある。人間は、とくに上下があるわけではないのに、好きで選んだわけではない性別によって目線に初めから高低差があったり、対話の可能性を奪われたりする。目を見て話せば理解し合える可能性がある人たちが、全く分かり合えないのがくやしい、という気持ちが、今回の作品のはじまりだったと思う。

数年前にツイッターで「女性専用車両は男性差別」という発言をしていた人がいて、ええええうそでしょ…と絶望したことがある。一体どうしたらそういう発言に至るんだろうと思い、そこで繰り広げられていた不毛なやりとりを見ると「痴漢をする男は最悪」という女性側のつぶやきから、もしかしたら、痴漢をする「男」は最悪、と解釈して強い反発を抱かれている可能性があった。そんなことはないと願いたいのだが、そこから「女」に対しての反発が生まれ、それを繰り返すうちに、女性用車両は男性差別だ!という発想に至っていたりして……と。推測にすぎないが。主語が大きいと、とにかく誤解と不幸が生まれやすいのは確かだと思う。

そういった「なんでか全く理解し合えないモード」が世界のどこかしこにあって、争いはそこから生まれていくんだなと、ふかく絶望していた時期があった。仕方ないと割り切ることもできるんだけど。

 

性はみんな平等に選べないものだから

でも、「性別」なんてもっとも身近で、しかもみんな平等に「自分で選べない」ものなのに、そのことで分かり合えないままでいるのは辛すぎたので、演劇にしようと思った。すべて書き切れるわけがないので、とても部分的だけど、隣に住んでいるかもしれない家族や、駅ですれ違ったかもしれない人のことだと思って書こうと思った。

近年はMetooだったり、性の多様性に関することが話題になることも増えて、それぞれいろんな問題があるのかもしれないけど、結局最後は「同じ目線で話せるか」ってところなんじゃないかと思って、まずは共感ができるものを目指した。

叶ったかどうかはわからないが、ある方が、「この気づきは痛かったけど観てよかった」と言ってくれたので、たった一人が振り向いて、こちらを見つめてくれただけでも、やってよかったのかなと今は思う。

失敗としては(この他にもいろいろあるが)、前回までのアンケートを流用したら、そこに「性別」という欄があって、男性・女性 としか選択肢がなかったことに、アチャーと思った。もちろん、どんな人が書いているかを知りたいって気持ちがあるけど、それも、もはや、いらないのかもしれないな。

 

お客さんともっと話せる作品を作りたいなあ

今回の作品、特に2月公演はこれまでの灯台とスプーンの作品の中でも最も強い思い入れのある上演になったと思う。もちろん、足りない部分や、悔しかった部分もあったけど。

「私はこう思います」というメッセージを発することはやっぱり怖いところもあったので、まず立ち会って見守ってくれた方がいらしたことが心からうれしかったし、できればもっとたくさんの方に観てもらえるようになりたいとも思えた。

まえも話したことがあるかもしれないけど、灯台とスプーンがはじまるずっとまえ、2012年に大学で演劇をしたときに、「水辺のアンシー」という宗教と姉妹と恋愛のえんげきをつくった。終演後に書いていただいたアンケートの中で、あるお客さんが裏面に小さく、その人の姉のことを書いていた。誰にでも話せないであろう姉の状況を告白してくれたのを読んで、演劇が人の深いところに影響を与える可能性を感じた。(このことを思い出すたびに、その人とお姉さんの無事を今でも祈ってしまう)

2015年から灯台とスプーンとして長編を5本書いて、まだまだな部分もあるけれど、形にしてこれたことに対しては小さく達成感を感じているし、思い返したらどの作品も自分にとってはありがたい時間で、しあわせな記憶が残っていると思う。そのぶんつらいことや、怒ったり泣いたりすることもあったけど、涙で瞳をきらきらさせて帰っていくお客さんの顔は、確実に自分の胸に刻み込まれていて、それを思い出すだけで続けていてよかったと思える。

今回の作品は、今まで以上にお客さんが終演後にいっぱい声をかけてくれて、思いを語ってくれた実感がある。それに、特に2月は演劇をやっていない、観るのがはじめてというお客様の比率も高かった。それがとてもうれしく、自分は続けられる限り劇作家でいつづけたい、という気持ちも強くなったし、作品を表に出していく勇気も前よりは増えたと思う。もっと、胸を張れるものを作りたい。そうなるように、できるだけたくさん考えたい。それでもし、おかしなものを作ってしまった時は、叱ってくれるお客さんたちがついているとも思えるから。今後とも精進したいと思います。

安藤さんがお休み中のため、彼女に観てもらうことが叶わなかったのは少し残念だった。でも、戻ってきたらいっぱい話したいと思う。