意味付けと服選びのちょっと長い旅

質問箱で、柄物は着ないのですか?と聞かれて、「あ、ないですね。柄物があまり好きでなくて…。柄物っていうか自分で選んでない意味付けのされた服をきるのがけっこう怖いところあります。突き詰めていくと逃げ場はないんだけど。」と答えた。

私は意味づけされるのがこわい。親から与えられた名前が「意味はない」から始まっているので、これがきみのアイデンティティでしょ?とろくに知りもしない他者から認定されてしまうのがとても恐怖なのだ(逆に何もない、が辛かった時期も)。もちろん今はそれでヤマアラシのようになったりはしないんだけど。その感覚が服にもあって、それゆえに、柄物の服とか、なんでそれを選んだか自分で答えられない服、を選ぶのが怖かったりする。

服は「ファッション」という言葉以前に生活を支えてくれているものなので、何を言っても仕方ないのだけど、デザインを少しも考えていない服、というのはやっぱりある。ワゴンセールとかで置いてある服の謎のデザインや、見えるところにタグの縫い目が出ていたり、安さのために形や素材を犠牲にして、量をとにかくさばかないと、という感覚が想像される服がものすごく苦手だ。せっかく服の形で生まれたのに。人の手によって「大事に作られなかった」だろう不幸(それが不幸じゃない人もきっといるんだろうけど、私にはそう見えちゃうのだ)と、その先にある「安く使われている人」という構造が透けて見えてしまい、とても悲しい。

20代前半はそれがとてもつらく、しかもお金がなかったので、どう服を買っていいのかもわからず辛かった。今は、できるだけ「服を作った末端の人」がそこまで不幸ではないこと、が想像できる服を買いたいなあと思う。すべてはむずかしいけど。

 

すこし話はずれるけど、3年くらい前に、ある縫製工場のホームページを作った(ディレクターとして)ことがあって。そのときに、いろいろとアパレルの内情を聞かせてもらった。記憶は曖昧だけど、博多阪急などのデパートに出しているそこそこ高い服(2,3万円くらい)を縫って、一着あたり数百円の利益で「うちはかなりいい方ですよ、スタッフもきちんと暮らせているし、まわせているから」と社長さんが言っていた。

その会社は、技術力で買われているところで、出来上がった後のチェックもなんども行われており、縫い目もとてもうつくしかった。スタッフさんとも何人かお話しして、仕事すごくたのしい!とか、きちんとしたものを作っている充実感、みたいな話を直接きいたので、もう、これは出来るだけ安い服よりも、この人たちが活躍できる服を買うのがいちばんだよな〜と思った。なにより、自分のすきなブランドの服を作ったことがある、というだけでもテンションが上がっていた。(工場のこれまで作った服リストにその店の服が載っていた。社長さんが「そうだよ〜そこのもうちが作ったことあるんだよ〜」と自慢げに話すのを聞いた)

それで、いい服が出来上がるのを見たら、それが店で並んでいるのを見たくなって、帰りにその好きなブランドのお店に行き店員さんと話した時に「そうですそうです、●●の工場です!!」と言われて、ウワーーだったら服はここで買うしか!と思って買い物をした思い出がある。

その好きなブランドの代表は、東京のホテルオークラ建替えに反対しているイギリスのデザイナーだった。そんなにいい場所なら一回行っておこうと、2015年に解体前のオークラへ遊びに行ったことがある。今はもう壊されてしまったホテルで紅茶を飲んだ。(ほとんどミーハーな行動で、今でもどうして行こうと思ったのかちょっと不思議だ)たしかに古くて美しく居心地よく、今でもその日のことを思い出せる、いい場所だったと思う。

声を上げるほどあの場所の良さを知っているイギリスの女性が服を作ってるなら着てみたいなと思ったのが、23歳のころだった。それから4年経って、少しずつマーガレットハウエルの服を着るようになれて、うれしい。やっと最初にもどるけど、その服たちのデザインは私にとっては何かを「意味づけ」させないまま、居心地よくいさせてくれる気がしていて、それもうれしい。