きれいごとが届かない

うそでもいいから、「がんばればむくわれる」とか「あきらめないで」とか「まけないで」「いつかよはあける」といったようなきれいごとが言葉として生きていたころのほうがよかったのかもしれない。「もうすっかり諦めてしまっているのに、人生はつづいて、しぬにしねないから、だったらシステムごとぶっこわしてしまおう、バイクの鍵でも壊してぬすんじゃえ」みたいな気持ちと「いいや自分はあきらめない側にいる、正義のほうにいく、しねないから壊すだって?だったらかわりにころしてやるよ」という怒りのような気持ちはどっちもデンジャー。でもそっちが現実になってるなあっておもうなあ。えらいひとがつくってきた世の中の洗脳がとけてしまった側と、その洗脳にすがる側、と書くといかにもアウトサイダーっぽいけど、これはべつに二項対立じゃないし、すべては個別案件だし、わたしはいつもどんなときもオロオロしているので。

きれいごと、ぜんぶ消費されてしまったような気がする。いや、きれいごとが死んだとか消費されたとかじゃなくて、言葉に信用がなくなるくらい世の中がまいってるんだろうな。多分。

そういう世の中で、いつおいてけぼりになるかもしれない世の中で誰かと手をつなげるような感じでいたいなとかおもうんだけど、それももう痛いのかもしれないし、いやもしかするとずっとそうだったのかもしれないし。と、なると、「無敵の人」だったり、「ぶっこわすの人」だったりは、宗教や学生運動のような連帯を持たない形で革命をおこして歴史に残るのかも。いや実はもう残っているのかも、なんて、ちょっとどんよりなことを書いてしまったけど、そういうモードでいろいろ考えてるだけだよ。

明日から大阪に行くんだけど、ぜんぜんそんな気がしないな。