腹がたつほど可愛い服

ムカつくほどかわいい服を買った。きていく場所はないけど、家の中で着てあそんでいる。zoomで話した友人には「なんでそんなデート服着てるのw」と言われた。笑。しばらくこんな服きれなかったな、というくらい女子〜なものを最近は無理せず着れるようになっている。

富豪だったら、GUCCIの強めの服をきて強めのヒール(マルジェラのブーツなどの、本当に見た目が強いもの)を履いて声をかけてきた人間を殴るくらいの気持ちで歩きたいみたいな願望があるんだけどね。いや、願望というか、防衛というか。服は装備だ。

なんでそう攻撃的な思想があるかというと(もちろん思ってるだけで殴ったりしないよ)、まあ聞いてほしい。大学1年生の夏か秋、親に買い与えられた服(女子〜なやつ、短めのスカート)を着て、髪も茶色くて少しパーマがかかっていた頃、うさぎの柄のめちゃめちゃかわいいレスポートサックを愛用していた。それでイオンモールを一人で歩いていたら、20代中〜後半くらいの男性につきまとわれた。大型店の端から端までを往復した。当時は話のネタにしていたが、はたしてただのナンパだったんだろうか?いまだにわからないが、そういう格好をするのはやめようと思うきっかけになった。負けた。いや負けたのか?わからない。髪を明るく染めるのもやめた。

高校の友達に言ったら「とにかくピンクはあかん」と言われた。とにかくトップスでピンクを着たら危ないと、その子もそういう経験があると言っていた。痴漢に遭う友達もいた。よく痴漢にあうという子は「とにかく短いスカートはあかん」と言っていた。バイト先でセクハラにあった話を何人かから聞いた。居酒屋とか、ちょっとかわいい制服のあるお店やガールズバーは完全にセクハラ当たり前。

高校の時に私に性的嫌がらせをしてきた人間は私に「次は制服で来て」と言った。

新卒の頃、23時ごろ自転車で天神から帰るとき、スニーカーで自転車に乗っていても声をかけられないが、ふつうのヒールの靴を履いてると交差点で信号待ちの時に「飲み直しませんか」と言われた。これは一度や二度ではなく15回くらいある。声はかけられずひたすら後ろから追いかけてくる人がいた。そういえば先日も近所の交差点で声をかけられ「公園に行こう」と言われた。(おもわずいかねーよ、と言ってしまった。)そのときも、またしても、たまたまヒールを履いていた。

男みたいな格好で、顔が見えないように池袋を歩いていたとき、「うちの店いい子いますよ」と声をかけられた。身長145cmでも男に見えたのかもしれない。別の日、女の格好をして秋葉原を歩いていたら「お疲れ様です」と言われた。

学生の頃からずっと「女」は「記号だ」と明確に理解していた。いやなやつはみんな、わかりやすい「女」を見分けて急にやってくる。髪、おっぱい、尻、足、スカート、などなど。

「記号」的に消費されることを嫌がった私は、学生の時は看護師や制服のあるOL、CAになることを断固拒絶した。小さい頃はアナウンサーになりたかった気持ちもあるけど「女子アナ」という消費のされ方を知ってやめた。「秘書」も嫌だったから、秘書検定とか死んでも受けたくなかった。大学の就職課の人にあきれられた。「あなたは嫌なんでしょ、かわいい制服着て、ネイルして、お昼になったら自分の作ったお弁当食べたり、長財布だけ持って外に出るのが」。「そうです」と。あの頃は、侵害が怖いゆえに、非常に強い職業差別意識を持っていた。よく女子大にいられたもんだ。いや、むしろ、女子大でよかったのか。

東京事変は好きだけど、椎名林檎のナース姿は嫌いだった。「なんかエロい」と言われて消費されることに対する拒絶反応がすごくあって、髪の毛をベリーショートにした。それでも、「なんかエロい」と言われた。「薄着の方がいいね、体のラインが見える方がいい」とか「そういうこと言ってても女だからね」とか、言われた。

男にはなれないから、せめて女ではないものとして、性別を超えた存在でいたいと思っていた。「私は男でも女でもない存在で生きる」と宣言していたし、女だと思われたくないと思っていた。「女」は気持ち悪いと思っていた。それでいながら、『少女革命ウテナ』を観て号泣したり、『放課後保健室』を読んで号泣した。

そういった呪いをといて、やっと好きな服を着られるようになったのは、やはり、あのナース姿を否定せずに、もっと自由に生きていいんだという共感を与えてくれた椎名林檎のおかげだし、マーガレットハウエルのおかげだし、さまざまな作品で出会えたフェミニズムのおかげだと思う。私が悪いんじゃないよなあって。

2015年。フェミニズムの作品を作ろうとした時、男性の知り合いに言ったら「それはやめたほうがいいよ」と言われた。よくないってさ。私はまだ考えが足りていなかったので、争いは産みたくないなと思って、やめてしまった。やめなくてよかったのに。というかなぜ「やめたほうがいい」と言ったのか。そういう怒りとか後悔とかが、まだ底に沈んでいるし、ここには絶対書きたくないセクハラもいろいろ、ある。私が傷ついてきたことを、だれかにわかってほしいわけじゃない。すぐに防衛しまくっていた私がこれだけあったのだから、みんなあるのだと、metooをみていて思う。

去年の末に、「性的にみられること」に対して一種の踏ん切りついた。女性であることもまあいいのではないかと。大人になったというか、単純に「慣れてしまった」のと、精神的に戦える、と思えるようになったからかもしれない。人間としてのセクシー、が、どういうものか、自分にとっての価値観が確立してきた(30代以降、なりたいと思える姿のイメージがついてきた)というのもある。あと、嫌な時は絶対に拒絶するし、絶対に声を上げるぞというじぶんを信じていた。

でも、このあいだは、まあべつに嫌じゃなかったし、仕方ないわな、と思ってしまっていた。ら、友達が怒ってくれた。そうだよね。ありがとね。

とはいえだ。私がどんな格好をしていても私は侵害されない。だから、かわいい服を着る。かつて「そんなの無理」と言っていたような、腹がたつほどにかわいいものも、今の私が着たいと思ったなら着る。着たい服を選ぶってそういうことなんだろう。ちゃんと私でありつづけられるなら、性別や性的な嫌悪感も、良い形で超えられそうな気がするのだ。