BUMP OF CHICKENと心の暗い部分で繋がっているはなし

BUMP OF CHICKENが好きだ。これについて書こうとは今まで思っていなかったけど、今、20代最後のこの年に、いろんな過去のアウトプットを続けていて、その流れで書いてみようとなった。

家で・外で、色々なことが重なり、何を信じればいいかわからなくなっていた中学生〜高校生の頃、それでもかろうじで、音楽があれば大丈夫だと思っていた。吹奏楽とBUMP OF CHICKENiPodに入れて、ひたすら聴いていた。藤原基央は神様だと思っていたし、神様がいなくても藤原基央がいれば大丈夫だと思っていた。極端でしょ。でも私にとって「好き」はやはり、ある種の「信仰」なのだと思う。私にとって「すきなもの=信じられるもの」で、私はそれを拗らせすぎているのかもしれない。

ゆえに、BUMP OF CHICKEN、藤原基央に対して違和感を感じていたのは2016年のBFLYツアーではないかなと思う。セットリストに、明るい曲ばかりで、(いや正しくは明るくない曲もあるが)ライブ全体の演出が「みんなでつながろう」としているように感じた。楽しそうにしている観客を映す演出もあった。全然悪いことではないのだ。ただ、バンプがこれまで歌い続けていた「大勢のひとり」に寄りそう音楽というよりも「みんなでひとつになる」ための時間だったように感じた。勝手なイメージ、勝手な期待なのだが。

藤原基央は、あくまで「ひとり」に向かって歌う人だと思っていたからだ。ひとり、の、あなた、に。だから、「みんな」の色が強くなりすぎたあの公演は、眩しくて、明るくて、カラフルな照明の中、どう処理すればいいかわからなかったのかもしれない。アンコールが天体観測なのも、「メジャーの人たち、だなあ」なんてひねくれて思っていた。(もちろん、その後、大好きに戻ってきます。Pathfinderも、去年の京セラドームaurora arkも、最高だったよ……。ホームシップ衛星以来、福岡に来たものすべて、と、aurora arkは行ってますので……。)

2006年、藤原基央は私たちに「心に鍵がかかったままでもいいから生き延びてくれ」と言った。(全文を見つけた、嬉しい。)スクールオブロック最終回、心の鍵。あの時間は特別だった。藤くんひとりで、すごい時間をかけて喋っていた。あの時、彼は暗闇のような思春期を生きる私を確かに引き止めた。メロディフラッグが流れる。覚えている。この曲が作られた理由も知っている私は、藤くんがリスナー全員のことを、私のことを本気で、「ひとり、の、あなた」として大切に向き合ってくれていると思った。それくらい言葉に力があったのだ。

2008年、秋葉原通り魔事件が起きた。この犯人が、犯行を起こす前に2chに書き込んでいたのはBUMP OF CHICKENの「ギルド」という曲の歌詞だった。私はとてもタイムリーにこのスレッドを読んでしまって、ただでさえ心のバランスを崩していた頃だったのだが、ナイフで胸を刺されたような衝撃を受けた。藤くんのことばを持ってしても、救えないものがあるんだ、と。

悔しいのか、悲しいのか、わからないが、犯人に強烈な「なぜ?」の気持ちを抱いてしまい、考え続けた。どういう経緯で、人を殺すことにしたのか。どんな悲しみがあって、どうして越えられなくて、犯行に及んだのか。止められる人はいなかったのか。止められる歌はなかったのか。なぜギルドの歌詞を書き込んだのか。大学受験生だった私は勉強に手がつかず、色々な資料を探して読み続けた。

2010年の夏、秋葉原通り魔事件をモチーフに、初めて60分ほどの戯曲を書いて上演した。ひどい作品だったし、失敗だらけの公演だった。初めての作・演出は全くうまくいかず、人間関係にしこりを残した。けど、初期衝動の塊だったこの作品をきっかけに、声をかけてくれた人や、興味を持ってくれた人はいたし、この頃の失敗が今にまっすぐ続いている気がする。誰かを救う言葉、なんてないのかもしれないが、この、19歳の劇作のはじまりは、「あなたを救う言葉があればよかったのに」だった。この絶望は、まだ続いていて終わることはないのだと思う。

だから、私とバンプは、明るい関係だけではなく、どこか暗い部分で繋がっている。いまでもギルドを「楽しい気持ちで」聴けるわけがないし、ゆえに、忘れてはいけない大事な曲になっている。暗い部分で繋がっているから、そしてあまりにも多くの時間をかけて聴いてきたから、自分を振り返る時はいつもBUMP OF CHICKENが必要になる。

もちろん、いちファンのたわごとです。

 

ミーハーなおまけ。藤くんは2012年ごろZepp福岡公演の折、舞台前方で(本当に近かった…)汗まみれの私が人の圧で押し殺されそうになっていた時(笑)「君、君、そう君、大丈夫?」と、声をかけてくれた。一緒に来ていた友達が「大丈夫!」というと、「いや君は大丈夫だろうけど」と。私も大丈夫、と言ったら「よしじゃあみんな一歩だけ下がろう、大股で」と提案した。彼は私を一瞬でも、確実に、認識してくれ、心配してくれたのだ。ありがとう(ありがとう……)。