主体が客体にかわるとき

最初にことわっておくが、以下の文章は要約すると「歯科矯正をするか悩んでいる私の複雑な気持ち」だ。どうぞ。

 

ふしあわせの根本原因の一つに自分を客体化してみてしまう、ということがあると思うのだけど、いつのまにか客体モードになっていることがあり、一体どういう時にこの嫌なモードに変わるのかを考えている。

たいてい、心が弱っている時とか、他者から厳しい言葉を食らった時、不機嫌な様子を見せられた時などが、客体モードのスイッチになっているのかな。それから今は、例えば見た目に関することで言えば、SNSで美しい人として消費されている写真があり、「素敵だな」というポジティブな気持ち→自分と比較する→自分はなんてひどい顔をしているんだ、となってしまう時もあり、非常にやっかいだ。

結局、自信を持って生きる、というか、自然に「自分が自分の操縦者である」ことを忘れないことが一番なのだけど、気を遣いすぎてしまう人間にとっては、「自分(と思い込んでいるが、実は世間の言葉や思想)が自分の操縦者である」にすり替わっていることが多く、本当、困ったものである。そういうことに悩んでいる暇があれば、もっと楽しいことをしたり、人生の充実のためにお金を使うべきだなんて、まあ強者の主体的自分、は思うのだけど、なかなかうまくいく訳はなく、私はいまだに自分の小さい目や出っぱっている上顎をどうしたら引っ込められるか夜な夜な検索し苦しんだりしている。お金をかけて済むことなら、矯正するかなあ…。それでケリがつくなら。

主体と客体、他者がいるから生まれる言葉であり、他者がいて自分の存在を認識してもらえるから自分が自分でいられる。そのなかで揺れ続けるのだけど、大事な時に主体がなくなってしまうと、ほんと、損な人生になってしまうので、気をつけたいなあという、こう書いていくことが、なるべく主体であろうとする訓練だと思うのだが、どうだろう。

コミュニケーションの中で、いつのまにか客体的な振る舞いにいきがちな人(つまり、聞き役になることが多く、内向的で、気が弱い人、あるいは、相手から支配を受けている者)は、自我を忘れて相手の価値によりそう可能性が高い。で、気づけば主体がなくなっている、みたいな流れだと思う。

見た目、というのはそのバランスの間にあって、消費される見た目と、自分がこうありたいという部分が、人間関係というかコミュニケーション媒介として役割がありすぎている。自分の見た目にある程度の自信があるだけで「実績とは関係ない、根拠のない自信」、というものにしっかりつながり、それは主体側に作用する。さらに「自信」も、コミュニケーションの中でつよいメッセージとなる。見た目以上にこれがある方が、説得力があるときもある。

どういう見た目でもお互いが等しく尊重されるべきという倫理観がこの世界でどれだけ言い続けられても、人種・ルッキズムの問題が解消しない(私の中でも解が出にくい)ことを、そして、周りがどうこうではなく結局自分が……まあ、今ここで悩んだって仕方ないんだけどさ。

そうつまり、見た目なんてつまらないことで自己を否定したくない、でも、それなら、強い心を持てって?持てばいいのか?強いといいのか?アンパンマンも僕は強くないって言ってたでしょ(昨日「ハピーの大冒険」映画をみた、とてもよかった…。)

誰にも虐げられていない、虐げてるのは自分で。レイアースのノヴァのような、ネガティブな感情を受け入れる、みたいなことにも少し近い、自分の愛せない部分も愛するみたいなこと。堂々巡りなのだが、愛せないけど努力でも変えられない部分は誰しもあって、どう付き合っていくか、病と近いよね。あ〜。自我、元気だな〜。大暴れじゃん。そういう自我は好きだよ。と、主体として慰めてるのが、このブログ、なんだよ。