あめふりヶ丘夜想曲

熊本の雨が心配だ。と思いながら、あめふりヶ丘夜想曲なんて戯曲のタイトルになりそうだなと思ったりする。

「丘の上に降った雨はいつも下に流れていく。それは私の大事な人の家かも知れない。丘の上に住む私は想うことしかできない。」

不謹慎だと想う。でも、もし、これを不謹慎だと脅迫されてしまったらもう創作なんてできない。なぜって災害を目の前に私はいつもなにもできない。想う、ことしかできない。たいてい夜。そんなことを。想う。夢に見る。だから演劇をやる。ごめんねって思いながらいつも。書くかも知れないし書かないかも知れない。

いっそのことどこまでも孤独の地平へつれていってくれと思うような、マグリッドの絵みたいな音楽がすき。この言葉、書いておきながらもうすでに恥ずかしいんだけど、そういう気持ちを書き記すような心ある人間だよ私。先週は本当に心おだやかでないことが連発して大変だったけど、やっとこの土日は寝て、寝て、寝て、寝まくって、少しはましになれただろうか。こなせていない仕事の山は見ないようにしている。で、アントニオ・カルロス・ジョビンなんて聴きながら、明日のことはいったん置いてブログを書いてみる。

七月がやってきてしまった。あまたの企画が中止になりあーあって思ってた四月から、もう三ヶ月が経っていて、戯曲が二本、演出の予定が一本、ナレーションはじめたり、ラジオドラマに参加したり、それなりに。それなりにやってるな。大きく動いているつもりはないけれど、こつこつと作品を作り続けて、いつか一つでも残るものになればいい。ならなかったら仕方ない。それくらいの気持ちでやろう。

食欲も出ず、家でもあまり料理をしない一週間だったけど、ひさしぶりに白菜を煮たスープを作ったり、かおりさんやしげさんとごはんをたべたり、せーやとごはんをたべたり、やっぱり気ごころ知れた人とたべるご飯はたくさんたべさせてくれるから良い。去年の夏はどんなご飯をたべていたんだっけ。スイカのジュースは去年から飲んでたような気がする。でも、やっぱり食べるものや選ぶものあんまり変わってないなあって思う。

いや、変わったものもある。昔だったらぜったいに買わないものを買って、身に付けるようになってる。ミケーレのバッグとか。びっくりしているけど、大人になったってことでいいだろうか。もっと大人になりたいって思いながらも、マシュマロはがまんしたくないし、すぐに弱音を吐いてしまうし、そういいながら人には「自分にもっと自信をもってくれ」なんて言ってしまうのだ。矛盾だらけだなあ。くやしいなあ。孤独を選んでるつもりながらすきな人たちの前ではすぐむきだしのヘボヘボになっちまうの、どうにかならんのかね。わかってもらえるわけなんて言いながら、結局のところ寂しがり屋で、くやしい、はずかしいことばかり。あーあ。でも、強烈なつながりたさとか、本当にいいたくても言えないこととか、だいたいぜんぶ作品にすればいいことがわかったので楽しみでもある。

部屋の配置を変えたら、聴く音楽もまた変わってきた。