記号と欲望とポリコレ

人にとって、なにが「うかつ」で「考えられていない」かは、本当に人によって異なる。逆に、なにに感動し、「良い」とし、「考えられている」かも、その人によって異なる。私と他者はちがうので、私がゆずれないぶぶんはより研ぎ澄ましていくしかないのだけど、例えばお金持ちの人のいるシーンでハーマンミラーのラウンジチェアを使うとか、カチカチの新しいコルビジェのLC2ソファーを使うとか、そういう「知ってる人には伝わるあるある」の「記号」の配置が、印象を左右したりする。私の理想のお金持ちはハーマンミラーにもコルビジェにも振り向かないと思う。でも、わかりやすいもんなあ。(BBCシャーロックがよぼよぼのLC3を使っていたのにはしびれたけど。あれほど使い込まれたものどこから持ってきたのか。)(好きなんだけどね…ミッドセンチュリーなデザイン家具。ただ消費の「され方」の印象が、価値を落としてるな〜と思う。)

えんげきを作る人のくせに、デザイナーのくせに、記号をつかいたくない一心でやりすぎると、言ってることとやってることが変わってしまうので、それなりに精神的にやられる。ゆえに、もっと別基準にずらして、ずらして、良いもの、をつくるしかない。もしくは、その「記号」に甘んじられるフィールドで表現するしかない。それがたびたびつらい。イラストを描かなくなったのは、前にも書いたかもしれないけど「男の子は青、女の子はピンク」をいれないといけないからです。イラストは記号の集合体であり、デザインももちろん記号の集合体なのだが、ジェンダーフリーでいられるのはデザインのフィールドであることが多く(そういった表現が主流になりつつあるので)たすかる。しかしまだまだイラストを描くという行為は、商業的なもの、「人の絵」を求めた時に、女性ならやわらかく、男性ならがっしりと描かないといけない。それを超えたいとは思わないから、できればうさぎの絵しか描きたくない。

女の子が肌を露出して自撮りをアップする。かわいいし、非常にインスタントでコンビニエンスな性消費である。お金持ちがフェラーリをアップし、札束の写真を(絶対に現金を使わないはずなのに)アップする。わかりやすくて伝わりやすいものにみんな反応し、欲望をつかまされる。欲望はいい。たいていは、ストレートに結果だけを追求する。私が活動を続けているのも欲望のためのはずなのだが、摂取の仕方がどうも屈折している。屈折した欲望を満たすのはインスタントな消費では難しいので、あるいみもっとも欲深きものなのかもしれない。だって、「いままでみんながよろこんでいた欲望」に対してNOを突きつけがちなわけだから。でもさ、欲望とポリコレはどこかできっとつりあいがとれるとも思うんだ。がんばろー。