いつでもやめられる

いつだってやめられるなあと思いながら、今年三本目の戯曲を書いている。いつだってやめられるのに、なんで書いているんだろう。去年はあんなに苦しんでも一作しか書けなかったのに。今年は、何か変化があっただろうか、と思うけど、当たり前に変化だらけであるし、団体の主宰を交代したこともあり(今まで主宰は安藤さん→柳田さんだった、今年私になりまして。)、いろいろ公表していないけど、いろいろと起こっている。公表するにいいタイミングがどんどん逃されており、すっかり空っぽのような気がしているけど、変わっている。まあ、あるいみ空っぽのようなもの、と、諦めて言ってしまいたくなる状況に違いはない。

そんな中でSNSにうかつな写真や映像を見てしまうと心が燃えさかってどうかなってしまいそうになったりする。多くの人の努力があっても中止になってしまう公演ばかりの中で、なんとかうまくいき上演されたこと、良かったねえという嫉妬もあるのだろう。が、上演前後の映像や、ディスタンシングされていないとても楽しげな写真や動画を見るとやはり、平常ではいられなくなったりもする。どこが、とか、だれが、とか言わないし(言えばもはや私が自粛警察だし)これをここに書く私も「怒りに任せたうかつさ」になるのかもしれない。まあ、小さく傷つきはするってことで。それは嘘ではない。落ち着こうね。

いつだってやめられるのになぜ演劇のことばかり考えてしまうんだろう。なぜ演劇のことでこうも心をざわつかせているんだろう。来年一年くらい(安藤さんがそうしたように)私も離れてみるとか、手もあるなと思いつつ、企画は進むし、今年できなかったこと、来年落ち着いたら必ず、という約束ばかりが増えていく。そう約束ばかりがいっぱいだ。その中にはきっとかなわない約束もあるんだろうと思う。でも、その約束に混ぜてくれた人はみんな大切だと思う。

演劇は見えない約束の集合体だ。「明日また」なんて言っても、時給で拘束しているわけじゃないから、稽古場に役者が来ない可能性だってありうる(広島の戯曲講座で喜安さんが言っていた言葉がずっと刺さっている)。私は自分の演出作では一度も経験がないが「降板」という可能性だってある。契約がないのに、良いものを作ろうというこころだけで集まってくれる人たちに、手渡せるのはほんの少額のギャラと、良いものを作って上演するってことでしかなく、いま、その約束をかなえることがとても、大変になっているんだ。演劇が大変なものなのに、実現がさらに大変になってる、と思ってしまって、これはとてもよくない。つくることは大抵面倒なんだからねえ。そして、その大変さ、面倒さを測るメジャーはないのに。まあ、そりゃ、もちろん心はやられますけども。

小さく鬱々としながらも、すきな作家が頑張っている姿を見て勇気をもらったりする。ここでいう作家は、いろいろなんだけど。小説家だったり、詩人だったり、劇作演出家だったり、音楽家だったり、アニメーション作家だったり、映画監督だったり、ドラマ脚本家だったり、漫画家だったり、文筆家だったり、イラストレーターだったり。いろいろ。ラブ。

あっそうそう。この間小さい頃の、なりたかったものの話をしていて、最古の記憶では「イルカのショーのお姉さん」になりたいと書いていたのだが(マリンワールドが楽しすぎたので、マリンワールドに永遠にいられる権利だと思っていた)、だんだんと「何になる」という表明をしなければならないことが大人からの押しつけに感じるようになり、「サウンドエンジニア(名前がかっこよさそうだから)」「ユーフォニアム 奏者(プロにあらず)」とか、書いていた。そして、最終的に「作家」と書くようになっていたきがする。そう、作家は、なにかを作る人なので、ふところがひろい。

そう考えると、物心ついた時から私は作家業をつづけており、手芸、お菓子、工作、音楽、小説、詩、イラスト、漫画、俳句、短歌、いろいろ作ることだけは諦めなかった。そして今はたまたまデザインをして、戯曲を書いている。いつやめてもいい。別のものを作るだけだからね。でも、やっぱりそのなかでも「書く」だけは消えない気がする。書くことでしか癒されない部分があって、私は自分がそれに救われているので、なにがあっても書くしかない、に戻ってきちゃうんだ。だって現に今のブログも、こんな気持ち、だれが聞いてくれるだろうと思うし。面白みのかけらもない非常に冗長な文章を。でも、私が書くことで、私が読めるわけです。そして、あなたはたまたまかもしれませんがここまで読んでくれました。ありがとー。

なんでも、いつでも、やめられますが、作家はやめないです。