コロナ夏の生活記録

願望としての「自分なりに丁寧に暮らす」ことが、変化に対応できずおらおらになってしまうときや、身体の不調、とくにいまは膝がほんとうに動かないことなどの辛さから叶わないとき、「お金を使えば解決することにつかうぜ」といった乱暴な思想になりがちなところを、「とにかく生活する」ことで抑えられないかという同じ葛藤のループを日々繰り返している。最近は特に、心が穏やかでなかったので(今日はとても元気だが)これからの見通しが全くたたない今、すがれるものがそういった「今楽しいもの」「100年間続くもの」「ともあれお金と健康」みたいになりがちで。

演劇は死なない、という人がいる。おおきな流れを見ればそうだろう。でも私が死んだら(ここでいう死は、もちろん単純なDeathに限らない、「演劇は死なない」がそもそも主語でかめの擬人化だしな…)私の中の小さい演劇は死ぬだろう。私だけでなく、若い実演家たちが死んだら、それだけの小さい世界が滅亡する。私はそれを悲しむよ。鳥の目と虫の目。どっちかというと虫なんだろう、私は。鳥の活動ができる人たちはすごいと思うけど、私はそんなに遠くに行けない。

今日は高校生の演劇部の方たちと会って、稽古を見学したら、すこし元気になった。彼女たちの戦いは始まったばかりで(すごいおおげさな表現をしています)なにか役に立てることがあれば良いなと思う。ともあれ作ろうとしていることはとても共感できるものだったので、できるかぎりのことをしたい。帰りに本屋とカフェの複合施設に寄ってぼーっとしつつ、濃いカフェラテとサンドイッチをむさぼり、目の前にすこし怖いお客さんが来てしまったのであわてて逃げつつ(ごめん、心を守るために必死だ)帰ってきた。まだ移動だけでヘトヘトで、家の近くに戻ってきてもまっすぐ帰れずにさらにコーヒーを飲んでしまった。まあいいか。いちおう、仕事として行っているし、生活をしていると思う。膝が限界で、帰りつくとさすがに秒で倒れたけど。

ここで言い聞かせるようにして何度書こうと、理想の生活はなかなか手元にいてくれないもどかしさよ。もともとのエネルギー量が少ないから仕方ないとはいえ、やはり家の中だけは平和を求めているのだなと思う。あたたかいものがすぐに作れたり、すきなご飯を料理して、たのしく食べるみたいなこと。シンプルで良いはずなのに、頭の中はタイムラインが流れまくり、世間の不条理に怒ったり泣いたり忙しない。おちつけ。みんなの人生とわたしの人生は違う。まあ、とはいえ、いくらもがいたって、意識はこうやって穏やかさを求めて戻ってくるわけだから、いいんじゃないですか。

豊かさとはなにか、と、考えたとき、家賃の高い家とか、ねだんの高いリゾートとか、いろいろ思いつきはするけど、結局はゆっくりおふろに入る、とか、お湯を沸かして紅茶を飲む、とか、そういう時間なのではと思う。いくらお外が戦場でも、家は落ち着く場でいたいものね。と思って、とりあえず紅茶を飲んでる。世界には限りも果てもある。そういうのでいいんだよ。