劇づくりと関係づくり

言葉を発すること、記すこと、伝えることは全て暴力になる可能性がある。自分が相手を傷つけたという実感をもつことで自分が傷つくのをおそれてしまうと、アウトプットにおそれが生じたり、誰かの顔色を伺うようなものを書いたり、射程距離の短いものになってしまう。

何年もかけて「とにかく強くなりたい」と言っていたのは、書き続けるために、傷つく覚悟をしなきゃいけないなということだったのかもしれない。と、「あめふりヶ丘夜想曲」の稽古をしていて、あるいは「ジョバンニの父への旅」の演出プラン講座を受けるうちに気づけてきた。劇は「関係」だ。今年はとても、関係、という言葉を意識している気がする。

関係。ツイッターにも書いたけど、今日コーヒーを淹れているときに、自尊心、じぶんの尊厳を守ることに意識的でないと、他人の尊厳もいつのまにか脅かしてしまうということばが湧いてきた。「関係」のある場所では、いつだってどちらかがどちらかを傷つける可能性をひめている。私が誰かを傷つける。自分が何で尊厳を奪われるか知っていないと、相手のものをいつのまにか奪う可能性がある。

私は自分の言葉によって母が何週間も寝込んでしまうような経験を10代の頃していたので、そのことに対する自己防衛が異常に強くなっている。(今年、やっと、母とこの話ができたので、とてもよかった)その結果、「私は相手を傷つける人間だ」という意識が強くなりすぎて、逆に自己否定的な時間が長かったのだが、それは解決とは逆行になってしまい、誰も幸せになれない。「私はいつも人を傷つける」とかもう、こんなに生きていてさ、今更、言ってられんのよ。そうじゃないでしょ?逆でしょ?って。「私はいつか人を傷つける可能性があることを知っていて、それでも人と関係していたい。」

今年も、俳優さんに「 ちょっと言いにくいんだけど」、と言われて、私が放ったある表現について気になったと指摘をもらって、自分はそんなつもりなかったけど、本当にごめんとあやまった。また、戯曲を読んでもらった相手から批判を受けた。そのときは、自分のことを本当にだめなやつだな思ったけど、指摘をしてもらえる関係があってよかった、と、むしろその信頼に感謝した。

15歳の少年が、近所で女性を殺した事件を見たときに、人間に性悪説とか性善説とかそういう「ベースの精神論」なんてものはありえないと実感した。少年は女子トイレを選び、襲った相手は20代の女性と6歳の少女だった。女が下だという社会の意思があるから、女が弱いという「事実」によって、少年は自分が傷つける相手を選んだ。なぜか「俺より強い相手」には決して立ち向かわない。

「私は何も考えてないです、悪意もありません、だから差別意識なんてないし、傷つけたり誤解を生んでしまっていたらすみません」なんてことは、絶対に、絶対に、絶対にない。社会から、関係から逃げるなって、思う。人は環境によってしか自分を変えられない。今ある社会構造に乗っかるか、環境を自分で変えていくか。マイノリティーである自分は、後者を選ばないと生きていけないが、環境を変えるにはものすごく大変なエネルギーを必要として、元気のない人には「自助」は難しい。それが、活動家が戦わなければならない理由なのだと思う。そして、私は活動家ではないけれど、構造を提示するくらいのことを、関係をすこし変える可能性や気づきを与える演劇を、作り続けたい。

ああこれが、何年もかけて言語化しようと試みていた、自分の創作の根幹のひとつなんだな。

だから私は、そのために、自分の自尊心を無意識に傷つける存在とは一緒にいられないし、「まあいいや」と一度思ったことを、「やっぱりだめ」と引き返せるようでありたい。まあいいや、を「まあいいや」の惰性で確定しておくこともできるけど、それは、もう、大人なんだからやめるし、傷つけることで傷つくことを恐れていてはいけないんだよな。痛みは祝福である。ちゃんと痛い、つらい、と、思いたい。きっと、こんなことあたりまえにみんな、できてるんだろうと思う。から、恥ずかしいけど。わかって言葉にしないと進めないのだ。