買い物と散歩と夜のおしゃべり

ブログを書いていないうちにまたいろいろなことがあった。だけど、いろいろをここに、それも具体的に書くのもとても骨の折れる作業で、むしろ今は書き進めている小説(十一日までに終わらせようと思っていたがそれも難しそうだ)、脚本、助成金の報告書のほうでキャパを持っていかれているので、重たい腰(否、指先)をあげるための準備運動的にこの文章を書いている。さらさらかけそうな範囲で運動しますね。

設備投資と称してさまざまなものを買った二月だった。100万円あれば人生は変えられるか、というと、変えられると思う。セルフケアのために購入したものたちは私の腰をとても守ってくれていて、さらに我が家に訪問する親しい人の足腰も守ってくれそうな予感がしている。

それに限らず、もう春が近いとはいえ加湿器のありがたさや自分の選んだカドーやバルミューダなどのプロダクトの美しさに心がとても落ち着くし、まさかのハッリ・コスキネンのランプが70%オフという天地を揺るがす大安売り(きっと売った人は価値がよくわかっていないに違いない、なんて思ってしまうほど、だってリプロダクトの廉価品でもないのだよ?!)をしていて大小二つも買ってしまったり、ともかく身の周りにあるアイテムが結構しっかりと一新された。古い友人は「デザイナーらしい家になった」と言うが、デザイナーというよりもやっぱりオタクという生態の匂いが拭えないなと思う。

快適さのおかげでしばらく作っていなかった料理も復活し、ここ3日は野菜を大量に煮込んだシチューなどを食べている。2月までの焦りが少し落ち着いて、3月に入ってからはなんだか妙な安心感が生まれ始めた。それは近くにいる人の言葉にも影響されているのかもしれない。龍太郎氏とフェミニズムについて話した日、自分の優しい世界を作ろうとする創作の傲慢さが飛び込んできてうああとなったりもしたがある意味その日その傲慢さが、別に悪いものでもないような気づきにもなり、今まで抱いていた(側から見ると)歪んだ正義感の暴走可能性について気づいて一旦フラットになるに至った。また新しい迷いは生まれているけど、何を大切にしたいのか、は前よりは解像度の高い言葉にできるようなきがする。自分の思想が作品に如実に反映される系作家なので、ある意味私は私のことをcharaだと思っているし、まあそれもいいのではないかと適当なことを考えている。無責任な文章だな…。

このようにだれかと話すことでしか得られないものがたくさんある。出会うことで気付けることもたくさんある。先月は「羨望」を受けるような人、と出会う機会がちょこちょこあり、その出会いもとっても大きめの刺激だった。刺激が大きすぎてどうなってしまうのかと思っちゃうシーンもあったが、落ち着いて今、目の前の仕事をこつこつとこなしている。

風の強い夜に公園で遊んで新しい日々がはじまったようなそうでもないような不思議な気持ちだ。コロナ禍で桜を見ながら「電気のない都市」のことを考えてた東京事変オタクな昨年の春からまた新しい春がきていて、この一年で私はどこか変わることができたのだろうか。相変わらずな気がする。勉強不足だし、面倒くさがりだし、健康に気を使っていると思いきやとてもじゃない不摂生に走る日があるし、苦しい頃を想起させる記事を読んでフラッシュバックが起こりコンビニでごはんをたくさん買ってしまう日もある。でも、去年山田さんにもらった「決意表明すること」という言葉が私を少しずつ開きはじめていたり(不調だと閉じちゃうんだけど)、じわじわと炬燵の中で足をあっためるみたいに人との関係性が想像していたものよりもさらにやさしくうれしいものに変わっており、少し安心しているような感じがする。

あと、BUMP OF CHICKENが好きなものたちよ。SONGSをみましたか。あれを見る前と見た後ではまたリスナーとしての関係性が変わったよね。一緒に見ていた母がflareをきいて泣きながら「いい歌詞ね」と言っていたので心のやさしい人なんだなと思った。

そんな近況です。