あのこは貴族を観ました

映画の感想をじぶんなりに書きます。ネタバレをしているようでしていないようでかなりしているのでお気をつけください。

誰かと完全にわかり合おうなどと思わない方がいいし、一緒にいる時間の方が大事だし、考えていることがいくら一致していても「いてっ」となったときに「大丈夫?」とすかさず返せることの方が断然重要だなと映画「あのこは貴族」を観て思った。知らない誰かとすれちがいざま手を振りあうことで分かり合えることなんてなにもない、でもその行動ひとつがあるだけで命がつながる、と書くとおおげさだけど、でもそれくらいのインパクトがあった。

邂逅のさなかにあるせりふ、もう言い回しは私の解釈によって変わってしまうのでなんてせりふだったかは書かないけど、今日この映画を観てよかったと連絡できる人がいる、あの本を読んだとつたえることができる、今こんなことを考えていると言える、それがどんなに幸せなことかと、自分の中にある、育っている大切なものがたくさん映る、だきしめたくなっちゃうような映画だった。

逆に突然の「きみのまつ毛がこんなに長かったなんて」ということや「あの時話して観ると言っていた映画のことなんて(というか観る、と言っていたことすら)忘れていた」ような、関係をすすめるため継続するためにその瞬間だけ相手の喜ぶ言葉を手渡して、本当に相手を見るために行動をしない、その時間がない、その立場にない、そのような苦しみが見えた。それがつらかった。

(女性が)サーキューレーターかよというせりふや、わたしたちは養分だといった言葉があった。なんだ、あのせりふ、どっから出てくるんだというくらい(原作なのか?)真ん中に打ってくるあれはなんだったのだろう。すごすぎる。

決して消費されたくないと心から思っていたのに、いつのまにか消費されつくされていて気づいたらとても疲れていた。ふんわりと生きていたらいつのまにか奪われているものが多過ぎる。だからふんわりとしない強めの警戒心でそのような奪う言葉を受ける場所から逃げ続けていたがそれでもあまりにも近くにその無意識にも確実な搾取がある。それは個人的な経験というよりも、女子大を出て気付かされた薄くて意味のないでも硬くて邪魔な常識の層みたいなものが本当にこの世には存在していて、馬鹿みたいにそれを守ろうとしている馬鹿がいる。誰かを踏んで生きることがそんなに楽しく当たり前か。足元にも気づかないのか。笑えちゃうぜ。

愛するものを大事にするしかない。そこに言葉は必要ない、言葉は言葉でしかない。行動に付随するものでしかなく、光や視覚のように反射でしかない。そう見えているものがそう見えるだけ。また会えるためのおまじない。おまじないは祈り。だから今まで書いていたセリフなんて全部セリフでしかなくて、つくってきたもの、さようならみたいな気持ちになる。おやすみ、おはよう、ありがとう、さよなら。あっこれはこの映画じゃない、いけないいけない(まじでごめんなさい)。

そうとにかく言葉は祈りだ。そして祈りが、(祈りそのものの切実さはとても大事だ、大事にしていたいともちろん思う)祈りでしかないということを知っている必要がある。祈りで人は救えない。救えたらよかった。教祖にでもなる気か。救えないのだ。BUMP OF CHICKENは歌うことができていいなと思う。救ってもらえたかというと、もちろん救ってもらえたんだけど、じっさい救ったのは私だ。ありがとう藤くんと私。そして一緒につくってくれるひとたち。私はたくさん言葉を読む。観る。聞く。話す。そして書く。でもことばをそれほど信じない。信じられない。たとえ私が詩人で、それでごはんにありつけたとしても。言葉は記号でしかない。だから好き。勝手に意味をつけて解釈をするのも自由。自分のために必要なんだからあたりまえ。でも本当の意味なんて、本当なんてないんだよなあ。

ベランダでアイスを食べたいし、自転車で二人乗りしたいし、お気に入りのもの、自分のものだと思える家で暮らしたいし、今日考えたことの話がしたい。ゲームをしたりごはんを食べたり映画を見て違う感想を言ったりファフナーやウテナやエヴァンゲリオンの話をしたりしたい。猫をなでたり鍋を食べたり珈琲を淹れたりろくでもないことを考えて伝えたりただ今日の調子とか今好きなものとかこないだ食べた美味しいものとか行った素敵な場所とか嘘でいいから一緒に暮らそうとかそういうのでいい。そういえば最近「早く引っ越してよ私と結婚するんじゃなかったの?!一緒にパリに住むんじゃなかったの」という最高の言葉をもらったんだった。ごめんでも愛してるよみたいな(可能性はゼロじゃないしね)、そういうのがずっと話せること、関係がわたしはうれしい。それができる相手の顔がすぐに思いつく。ラブリー。そういう愛しかもう持ちたくないし書きたくない。なんて今だけ思うのも自由でしょう。そうさせてくれたのが「あのこは貴族」です。

いとおしさで、帰りのバスの中で泣いてしまった。