居場所から逃れることを描く

生きていくのが困難なコミュニティから逃れ別の場所で生きるという作品を、「藪に坐る人」という戯曲で書いたことがある。その前の作品「海をわたる獏」が、故郷から離れないことを選ぶ人の話(直接的にそうは書いていないけど)だったことで、逆に人が故郷から出ていくことを選択するとはどういうことだろうという考えも一つあったのだと思う。

映画「ウルフウォーカー」でも同じような移住、住処を変えるという展開がある。そしてまだ見ていないが「ノマドランド」は、高齢者が住処を持たず移動しながら暮らす話のようで、なんとなく今見たいものとしてあがっているので、興味のあることなのだろうと思う。「引っ越し」。

灯台とスプーンで作った作品「藪に坐る人」や「幸福な山羊王子とおひめさまのはなし」を見た人の感想に、「自分の意識の中で話が終わっており他人と関わろうとしていない/関係からの逃げを感じる」とか書かれたことがある。逃げか〜と思った。こんなことをここに書くのもあれなのだが、いやそれを書くためにやってんだよというか、他人との関わりの中でもうこれは限界という状況を書いていた、だから、日々の暮らしの中で「それ」を感じる人とそうでない人とで感想がこれほど大きく変わるのだなと、急に気づいた。「自分が逃げ出す/住処を変えるしかすべがないこと」について、良くも悪くもんないんだけど、逃げることが「無責任だ」ととるひとは一定数いる。

たしかにリリも千草もハガツサを離れて藪の中で暮らすようになる(そこで信じられている常識から抜け出す)し、つぐみも一度母親達と、もとこと、アトリと離れている(離れている間に何を考えているかはあの頃は書く必要ないと思い書かなかった、今はちょっと書くべきだったかもと思っている)積極的撤退をして、最低限生きていくためにどうすれば良いのか彼女達はいつもギリギリだ。いやそう考えるとギリギリな女の子たちばかり書いていた、2019年までは。今は少し違うようで、意外と違わないかもしれない。「あめふりヶ丘夜想曲」も、最後は四女が生きる場所を選ぶ話だったわけだし。去年は絶対にシスターフッドを書くのだと鼻息荒く生きていた。やはりその登場人物達は、どこか傷ついたり、世の中とのズレを感じていたり、常識との折り合いをなんとかつけながら生きている(けど無理な時もある)。実はまだ書き足りていないので、別の形で女たちを書いていきたいと思うほどに、自分の中で守るべきイマジナリーガールフレンドが育っている気がします。

今の感覚だけど、戯曲は書いたものが完成系だと思っていなくて、たとえば旗揚げ公演の葛葉、千春、紅音という三人が最初の女達で、「女らしく男に迎合する」「男らしく決して迎合しない」「女とか男とかの概念から逃れて生きられる立場に行く」という3種の立場から見てみようみたいなはじまりが2015年の秋私にあった。その時振り絞ったのがそれしかなかったのが、6年経った今もう少しありそうだぞ、と、いろんな女性を描くのがとてもたのしい。でも、本当にその三人がはじまりで、あの作品をまた今再演するとしたらきっと違う演出になるのだろう。

そのあと書いた「まがいものの乙女たち」というそれこそ「大学卒業した後われわれ女としてどうやって生きていきゃいいの!?」というテーマをうしろにしっかりと抱きつかせた楽しく深町くんのギターがやさしいサスペンス作品もあります。女子中高生がその時期からすでに性対象として見られるという恐怖や「その年で妊娠する」ということが呪いになってしまう十代の女の子の悲劇に対してふざけんなと思いながら書いているところがありますが、時代のあれやこれやと、私の思想が完全には育っていなかったことでガツンとできなかった悔しさを今も背負っている。というか基本全部くやしいばっかりだよ〜〜。劇を作るってなんなのでしょうね。こちとら全員倒すくらいのつもりでやってるのですが。むずかしいです。