意地と真実とカタンの王

昨日は急に心が追い詰められた瞬間があり、帰り道に寄ったスーパーでゆずッシュ(ウメッシュの柚子版)を買い飲みながら家に戻った。そのまま寝落ちして2:30ごろ目覚め、色々寝支度をして寝直したら比較的すっきりして目覚めた。お酒を飲んで強制終了させると良い時と悪い時とあるが、強制終了と強制起動が必要な日もあって、そういうタイミングで昨日はちょうどよい経験だった(健康には良くない)気がする。

何かを取りこぼしている気がしていて、ならない、何をとは言えないけど、でもいつだってそうだ、そういう小さい不安が常に隣にあって、完全に安心していることはとてもめずらしい。ただ、時々、その完全な安心というか、甘々な、安全な日がやってくることに救いを感じている。あきらかになにかが変わった。すこやかなきもちでいられる日が多い気がする。毎晩桜を見て池を通ってるからかな。

お仕事で知り合った方たちと近々カタンをする約束が待ち遠しくてたまらない。カタン。11月にやったきり夢にまで出てくるみわくのボードゲーム。一度しかプレイしていないのに、悔しかった気持ちがすぐに蘇る。私は本当にゲームにハマってはいけない性格なんだとしみじみ思う。早くペルソナもしたいのに…。ともあれカタンである。われわれがカタンの王と呼ぶタナカさん、タナカしかカタンという残念なワードで茶化されていた王をどうすれば倒せるのか考えることで、二日に一度くらいわくわくしており心が完全にただの小学生だなと思う。楽しみがあることはいいことだ。中学生の時、深夜活動をしていた私は昼とても眠い学生だったのだが、ファフナーの最終回が近づくたびにハッと目覚めていた「今夜、ファフナーの日だ」ってだけで。そういうわくわくがまだ残っていることが嬉しい。(予め断っておくとファフナーはわくわくアニメではない、毎週正座しながら号泣しながら観ていた、中学生の私にとっては本気の切実と信用と愛情が含まれている話だった)

今日話をしていて急に「本当が欲しいんだよね」というポエムを吐いてしまい、さらに「一生かけて」という檄大袈裟なことばをつかってしまう自分がいていまだに思春期の中を暮らしているのかと呆れた。しかし、思っていないことは言葉にもならない、思っていることがいつのまにか出てしまって大袈裟で小っ恥ずかしいぐらいが、事実がどうあれ多分わたしのある一種の真実で本当なんじゃないだろうかとも思う。事実と真実がちがうということは「ジョバンニの父への旅」でひたすらにあじわった。なにを真実とするかは人それぞれで、それはある意味信仰でもある。祈りもしないし過度に期待もしないけど、まあとりあえず自分のレイヤーの中で見える世界を信じてがんばっていきるしかないよなと相変わらず思い続けている。この時代に演劇を続けようとするなんて、本当にただの意地だけだよなと思う。