ロイホでパフェを食べるだけの日記

休憩をしなければならない。本当はやるべきことがたくさんあるし、仕事と常に追いかけっこしている気持ちなのだけど、この二日朝まったく体が動かない状態になってしまい、心が落ち込んでしまった。心が元気だったら基本何でもできるし、なんでもいいのだが、心がやられることだけは、自分にとってとてもよくないということを知っている。

だめだなあとか、私は本当になにもしていないという口癖(いや本当に何もしていないと思ってしまう、これは病なのだろうか、何もしてない気分病…)がまた復活しつつ、作業だと称してなにを食べるかも決めず平日昼間のロイヤルホストに入ってしまう。ああまた無計画になにをしているんだろう。でも気分は変えたい。で、食事をするのか?パフェを食べるのか?メニューを見てまた悩む、なんで入った?ステーキが美味しそうだ、でも食事でいいのか?お値段的にもあんまり贅沢はできない、コーヒーは飲みたい、で、どうするんだ?などのさまざまな内的欲求との対峙に疲れる。先日高校で「決めるのは●●ちゃんだよ」という、演出家に向けて役者が言った言葉を思い出す。それを言った彼女のことを私は信頼しているし、正しい。だけど、決断の積み重ねは時として結構大変なのだよなとも思う。全く同じように「それはあなたが決めることでしょ」と前の現場で言われた言葉を思い出す。それも本当に正しい。いいものを作るためにはそれが必要だし、一人で作るわけではないのだから。でもそれは人を巻き込まなければならないのと同義なので、「こんなことを依頼するのが怖い」みたいな気持ちに陥るときがある。頼むことに対する引け目は頼まれる側にとって失礼だということを今は知っている。それはある意味では侮辱になるんだという気づきも。ただし、人によって感じ方は変わる。天秤の片方に、指示する暴力性、もう片方に、仕事を頼む信頼が乗っている。それがバランスを崩すと「ハラスメント」になることも知っている。私はまだ、もっと見ず知らずの人と関係して、信頼を築いていけるのだろうか。

あっ、で、話を戻す、時間もお金もないことが多いこの人生、ゆっくり悩む時間がない時、決断は一種のストレスだ。いつだって決断とのたたかいだと思う。今も自分の選んだ結果と生きているなと思いつつ。いい加減決めねばと、結局いつも頼んでしまうホットケーキとパフェのセットを頼むことにした。まだ少しの迷いを持ちながら。今の季節はアップルマンゴーパフェだ。夏至も過ぎてしまったんだ。ステーキは?まあいい。作り置きのミートローフもどきが家にはあるので、夜ちゃんとタンパク質を食べよう。演出するさいに特に私に必要なことは、決断と態度表明の勇気だ。私は結局いつものパフェセットを頼むという決断と、態度表明をした。それで本当に良かったのか?いいと信じたい。なんとなく選んだのではなく、色々な状況と欲求と照らし合わせ悩んだ上で決めたのだ。たとえパフェが思った味でなくても良い。岸辺露伴的にいうと、「僕は「運」をこれから乗り越えるッ!!」である。

馬鹿なことを思いながらも、店員さんの女の子が持ってきてくれるパフェの見た目に一瞬喜ぶ。店員さん、笑う。かわいい。コミュニケーション、うれしい。パフェ、おいしい。マンゴーのことを甘くみていたな、いや甘いのだが。続いてホットケーキもやってくる。店員さん、また笑う。うれしい。ホットケーキ、おいしい。と、IQ低めの感じで楽しく食べていたら、新たにお店にやってきたマダムが突然話しかけてくる。

「おいしい?」「美味しいです」「そうね、あなたとっても美味しそうに食べているから」「うふふ」思わず二人で笑ってしまう。マダム、いなくなる。決して、彼女が作ったパフェでもホットケーキでもないのに、急になんかうれしくて一瞬だけ泣きそうになる。えっ。どうしたどうした、である。美味しいか聞かれただけなのに。疲れているな。しかし、なんだか、今日ここへ来て良かったな、となる。

自分が演劇で作りたい時間、って、こういうものでいいのではないか。と思ったりする。傑作を作るみたいな意気込みを常に持っているわけではないが、作るなら前のものよりいいものをという欲はある、ただしそれはとたんにプレッシャーになってしまう。ただ、新しいものをガンガン作れていない今だが、高校生の演劇に対しては「こうしてみたら?」「それならこれが効果的では」と演出のアイディアがどんどん湧いて、どうすれば面白くなりそうとか、どうすれば伝わる、に対するモチベーションは低くないんだと気づく。

また別の話で、ある制作さんとWSについてのお話しをしていたとき、私が「ビビり過ぎている、覚悟がない」というのに対し「ビビってても続けているのは才能だし、毎度ビビっているということは自分の選択に対して間違いが起こる可能性を常に感じ取ろうとしていることだから」と言って去っていったことに、少し、いやかなり救われた。気負いすぎも悪くないということを認めてもらえた気がした。

ただし選択に対する不安が大きすぎると、それにすべて覆われてしまってなにも思いつかない、進めない理由になってしまうことも大いにあるんだよー、とおもっていた、ことに対して、マダムの「美味しい?」というあの、あまりにも自然な問いかけである。そして彼女がそれをするに至ったのが、「思わず美味しそうに食べていた」自分がいつのまにかの態度表明だったことに、あーー、「見られている」、見られているけど、悪いことでもないなと感じた。

すでにあるものは、隠せない。隠していると「存在しているものを隠している状態」がある、ことになる、みたいなことをあらためて考えていて。服なんかでもそうで、「隠したいもの」を隠す時、そこに対して「隠している自分」が生まれている。とても細かなことだから、多くの人は気づかないけど、たとえば日焼けをしないために羽織るカーディガンは、結果「日焼けをしたくない私、肌を隠したい私」を表明したことになる。私は自称令和のシャーロックホームズなので(ふざけている)、人のそういうところを観察するのが結構好きだ。

そう、だから、私が見るのと同じだけ私も見られているし、この選択を知られている。美味しいという表明も、内面を出しているつもりがないのに、いつのまにか心の中をだれかと共有している。そのときにやさしい反応をしてくれる相手と出会えた、ロイホ、ありがとうの日記でした。