料理という娯楽

3食自炊ができた日、自分のことをこれからも愛せるなと思った。ナルシズムというよりは、なんかよかったねえみたいな方向で。20代「生きててよかったな」と大袈裟に言うことが何度かあって、それは30歳になってからは比較的定着し、むしろもらえるご褒美が多すぎるというか、とにかく精神的に不安定になることもなくなった(もちろん、自分の行動で落ち込んだり疲れたりは当たり前に繰り返しているが)。10代から自分の頭の中で恒常的に続くものだと思っていた、とこしえの不幸を一度取りさることができたので、もうわざわざ「生きててよかった」みたいな言葉を吐くのもナンセンスやなと思いながら暮らしてきた。でも今あらためて生活や、自分で選んだ身の回りの人モノもろもろを愛していて、ちゃんと生きてきてよかったなみたいな、よしよしえらいぜみたいな気持ち。

思ったことを素直に言葉にする訓練はまだ続いているが、ちょっとうまくなったのかもしれないし、まだちがうのかもしれない。人とのコミュニケーションを家とか、お店にたとえて話すことがあったとき、「田村さんは常に扉全開よね」と言われて、そんなことはないよーと言いつつも、でもコミュニケーションのシャッターを、おろしちゃいけないと言い聞かせている自覚はあるなとも思う。というか、シャッター下さずにどこまで自分として表現することができるんだろうという気持ち。もちろん人によって印象は変わるんだと思う。ただ、まあ、弱いとかみっともないとかいう部分は、自分が生身である証拠でもあるよね。

ということを、生身の村上さん一人芝居(いけてよかった…)を観た後にコーヒーを飲みながら書いている。本当は、やらなくちゃいけない仕事、いっぱいあるはずなのに。大型巨人と呼んでいるデザインの仕事とか、書きものとか。夜、がんばる。つもりでいます。メールも、返します…。

昨日はひさしぶりに再会した技術者の方と会議して、大きな成長ぶりに感動したことですっかり安心というか、これからびしびしやってくるであろう大規模なデザイン仕事に対して勇気をもてる感じがした。いまだに、演劇とデザイン、その両立に悩んだり迷ったりは続いているのだけど、ジャンルでわけるのでなく一緒にやる人で判断するルールのおかげで、ストレスは本当に減っている。

夜は、灯台とスプーンの長めの会議をした。また来週に続きをする。皆忙しい中で、かなり乱暴な設定をしてしまって申し訳ないなと思いながら、でもこの日も素直に話ができてよかったし、いいメンバーだなと思う。しごとがいくらハードモードだろうと、30歳のいまの自分のハッピーさ、ありがたさ、これからハッピーでなくなる時期はおそらくきっとくるだろうが、いつまでも覚えていたい。

話を戻すが、料理をつくることの楽しさはなにか特別なものを作るとか、傑作をつくるみたいな意気込みがなくても、日常的に満足を得られる創作として得られる楽しさだよなと思う。今は簡単においしいものが作れるように、さまざまな食品メーカーが楽できるものやすぐに調理できるものを用意してくれていて、どれも本当に安く、少しの工夫で満足度が劇的に上がる。作ること・食べることで、エンドルフィンがちゃんと出るってとてもいいことだなと改めて思う。おいしい食事を作れることは自分の暮らしが幸せだと思う要素の一つなんだと。本当にいいまお金の使い所もなくて、買えるものとめぐりあえていない。仕事をめちゃめちゃやって、ご飯をつくって食べて、スマブラをしながらノンアルコールビールを飲むことが至上の幸福のような日々を過ごしていて、きっと料理は娯楽の一つになっているのだろうなと思う。いまもそこそこ忙しい状態なんだけど、きっと猛烈に忙しくなったらまたつくることを忘れてしまいそうだから怖いので、料理は自分を癒す行為であることを書いておこうと思い、タイトルにしました。今夜は何作ろうかな。