頭の整理と要素の陳列

「人を見捨てるということに自分は躊躇しない」と明言する強さを持った人間と一緒に仕事をしているので、ぐずぐずしているとなにやっていると言われる。思いやりがないとかサイコパスであるとかその人に対して悪口を言うこともある、が、同時にその人からもらえるそれはすごく自分にとっては大切な一言で、一種の「こういうものだから」という切り捨て、そこに至るまでにどんな思考があろうとも、決断して実行して不器用ながらも先に進まなければならないという明確なベクトル、そうでないと自分には時間がなくて、やらなくてはいけないこと、この今世でだれと生きていきたいか何を残したいかがはたせない。こんなつもりじゃなかった、とか、自分のやったことに対して不満を言いながら生きていきたくないよねという、そういう大人になって子どもを支配したくないという、自分が子ども時代出会えなかった、出会いたかった大人たちと大人になって出会い、できればこのように生きて行けたらいいと思えるソース、それをひとつひとつ細かく選び取り、できる限りおそれを抱かずに生きていきたい、と思っている。

高校の研修で、生徒の関わり方や人権に関するスライドを見せてもらいながら、どのようなことに気をつけていますかと聞かれた。演劇は「見られる」活動なので本人の努力とかやる気とかに関わらず傷つく可能性がとても高い、から演技に対する指摘はあれど本人を攻撃する様な現場を作らない努力をしなければなりたたない、精神的安全性を保てる場所をつくりたいとか パッといろんなことばが溢れてきて大変感心、みたいな反応をされたのだが それは本当にできているのだろうか、私はあのとき人を攻撃したのではないかとか 相変わらず辛い作業だなとしみじみ思っていた。

演劇を作ること。見せること。見られるということ。心豊かな渡しあいができることもあれば、怯えに怯えて恐怖でお腹が痛いこともある。どちらかといえば後者のほうが天秤は重く、でももう片方の天秤に乗ってる軽くて軽くて一粒しかない光ってる何か、それに価値があるのかもわからないのに、その一粒の何かのためになぜ人は頑張るんだろうとかやっぱりいつも思っている コロナになってより一層それは加速していて、ひとつぶを得るためにやらなくてはいけないこと、苦心しなければならないこと、多すぎる。それでも彼女たちは演劇部に入ってくる。演劇がやりたい、書きたいのだという。もうそれだけで眩しい、子どもと大人の中間である彼女らにとって、私は大人の1ソースとして機能できるのだろうか。

忙しい中でも団体を継続したいと思っている、演劇をライフワークとして捉える団員たちのために私はなにを書けばいいんだろうか。演劇以外の仕事をしてへとへとになりながら命をがりがりに削って演出を考えているがんばりやさんの力になれるのだろうか。自分の傘の内だけは確実に守りそれ以外は考えないと言い切れる厳しいつよい人のために作り続けることができるだろうか。

目的のこと以外には心を割いているひまなんてなくて、それは豊かなことではないのかもしれないが、本当に時間は平等にガンガンすぎて行くので、向き合わないといけないし別れは受け入れないといけないし、傷つけた自分が傷つくことをおそれずに言葉を伝えなければならない。

BUMP OF CHICKENを久しぶりに聴いた(また、ほとんど聴かなくなっていて、あれは立ち止まる時に聴く音楽だからなんだろうなと気づく、)。エバーラスティングライって曲がすごく美しくて好きなのだけど、あの美しさは音楽の中で完結するべきで、自分の人生に持ち込んではいけないよなとか。同じドアをくぐれたら、とかのユグドラシル曲に深く共感していた10代の自分は心優しかったなとか、すがるための詩を見つけて自分の中に取り込むよりも、書きたいんだろうな今は、とか、思う。

結構前だが、あるTwitterで有名な作家がフリートで寺山修司のインタビュー映像を無断で切り抜いて転載していて、それをDMで指摘するような凸行動をしてしまった日がある(なにをやってるんだと思うが、マジで普通に嫌だなと思ってやってしまった、本人と交友があるとかでもなく、自分の作品に挟む様にして素材にされていたので。丁寧に返事があり投稿は消された)のだが、それも「とりこみたい」欲なんだろうなと思う。自分の一部として、夢や憧れの存在をとりこんで肉にしたいみたいな。あるいは自分がなりたいみたいな。知らんけど。村上春樹の小説に音楽がたくさん出てくるのとはまた違って。あれはどちらかというと陳列行為に近いのではとか。で、今は受肉とか食べて取り込むとか内面に入り込むみたいなことがかなり気持ち悪く感じ、陳列の方がずっと善く、健康に感じる。