過干渉と怒り

灯台ごと。昨日は劇団の会議しました、戯曲を書き直したい欲望について、書く欲望について、演技をする演劇をするってなんなのだろうという話。私は仲良い人に干渉しがちな悪いところがあり、その「社会に対する過干渉」が書きものの原動力なのではとか。干渉の源は不誠実への怒りなのではないかとか。

子ども時代の母親との関係のなかで、コミュニケーションでシャッターを閉めない、逃げられないという10代からの訓練が自分の生活の礎を作っていて、ただしそれが人にとって放っておいてほしい・そのままにしておいてほしいことまでめくりあげ、相手の逃げ場を無くしてしまう可能性とかについて考えていた。誠実っていう正義によって人を追い詰める可能性。

だからほどほどの距離をもつ必要があって、基本あまり他人に興味をもたないようにしているし、その加虐性をはらむ行動をしかけたときは一度落ち着いたほうがよいだろうということ。そうでないと本当にいつかどこかで(すでに、の部分もあるが)正義を盾に人を殴るようになってしまうので。

人間関係とか社会に対する愛ゆえの過干渉が作品を作るしトラブルを招いているということにここ数年とても気づいてきており、なんていうんだろう、それはなくしてはいけない感覚なんだけど人に対してついつい過剰にやりすぎてしまうのは、相性にもよりますが気をつけた方がよくて、結構意識しているつもりだけど一層かんじる。他者のそういうふるまいに対してはよく気づくけど、自分はどうだったか、あらためて思い返したりしていた。

でも、創作の根源はこの過干渉を社会に対して抱いているのだろうし、この怒りも、曖昧にしているものの存在は否定しないけど本当は白黒つけたいみたいな、おおもとの気持ちが、自分を作っているし作品をつくっているんだろうなとか。社会に対して干渉したいんだろうなと。それを諦めているときは、結局なにもつくらなくていいんじゃないかって思う時で。諦めてしまっている時って、本当に何も書けないもんね。と、自分のよくない部分を掘っていくの、しんどいしここに書くものでもないのだが、そういうところまで考えていかないとなんでやっているのか、どう続ければいいか、また黴させてしまってそれを放置できないのだろうな、自分はとかとか。