セルフケアを考える

どうしたら仕事をセーブできるのだろう。今年ゆとりがあったのは7月くらいで、去年からなかなかずっと忙しい状況が抜けずにいる気がする。あれが終わったらつぎはあれが来る。それを繰り返している。この2年ほどの忙しさ、ハードさは、新卒の頃以来じゃないかなと思う。

新卒で入社した会社は、月末に500万円くらいの目標金額を達成するためにハードな時間を過ごしていた。時間も心も余裕がないから、コンビニかスーパーのお弁当を食べて暮らす。そして、翌月の1日になったら、あれだけ頑張った数字が「0」に戻る。もちろん、それは年間目標に積み上がっているから、この月の、という切り替えをすれば良かったのだろう。しかし、なんの休憩もないまま「0」に引き戻されることを繰り返した挙句、(要因は他にもあったが)この人生に意味なんてないなと思い込むようになった、という事実が刻まれている。それを「日常」にしてしまっては未来が見えないので辞めた。実際にやっていることと、自分の中でもっていたい目標のずれは、とてもしんどい。

それで、いま、その目標が「ズレている」とは思わないのだが、やっぱり過労で心に余裕のない日が増える時期は心配になる。大変さ、は日常であたりまえのものなので、そのサイクルを繰り返すことができるかなのだが、ひとつ踏み外すと本当に仕事しかやっていない人間になってしまい、むずかしい。19時以降は「仕事」と思うものをすべてやらないくらいのペースで行きたいのに、それでは成り立たなくなっている。なにをやって生きていきたいか。楽しいことはなんなのかって本当にちょくちょくふりかえらないと忘れがちだ。

そういう時間のなさから、移動中も作業の必要性を感じ、バイクに乗らず、バスに乗って移動する時間を増やしている。先日、乗っていてなぜそう思ったのかは忘れたが、「ケア」とはなんだろう、みたいなことをあらためて考えていた。

最近はカフェラテを入れることが習慣化し、同時にすごい勢いで牛乳を消費している。そのおかげで、追い詰められてもそこまで脳がイライラしないというか、カルシウムとビタミンDはやっぱり必要なんだなと思う。そして、もうひとつ最近買ったオムロンの電気治療機は、すごく効いているわけじゃないが、腰が最悪から脱することができた気がする。この二大買い物は、自分を守ってるきがしていて、ケアを感じる。

カフェラテを作ることがセルフケアなのかというと、そうなのだと思う。ゲームをすることも、ケアだと思う。「癒し」という言葉の捉え方は人によってさまざまだが、わたしはその言葉にとても無頓着で、特に若い時は脳筋だったのでなぜ人は「癒しが欲しい」とかいうんだろうと思っていた。癒されたいって言葉に気持ち悪さを感じていた。しかし最近は結構自分でその言葉を意識して使っているというか、言葉では言わないけど、実行しようという目標の一つになっている(そうでないともたない)。ただし無自覚に他者にそれを求めることはもういい大人なんだからやめないといけない。大型犬が目の前にいたら明確に「ごめん、甘えます!」と言って抱きつきたい。

好きな作品を見るのも、音楽を聴くのも、すべて自分のためであり、なんとなくではなく、ある意味ケアのために求めている。私は今甘えたい。ケアが欲しい。という、自覚をもっと敏感にもっていく。それが、日常のサイクルを回す上であとあと必要になってくるというか、結果として自分が倒れそうになった時に「だれのせいで?」とならないためでもある。

もちろん、普段はそんなガチガチに考えていない。友達とお茶したり、なんとなくの会話の中で、結果として「ケアされた」となる場合はとても多い。しかし、そのために行かない、というか。うーん、というよりも、負担なくケアし合える、無理せず支え合える相手と一緒に過ごす、ということなのかもしれない。ビートルズのHELPのごとく「助けて欲しい、だれでもいいってわけじゃないけど」。あの歌詞は本当にすき。

自己犠牲的に人と関わると、いずれ限界がやってくる。それを背負うことに慣れても、満足は得られるかもしれないが、幸せにはなれない。された側もそうで、実際は悲劇であることが多いので。あったかい風呂に入って、ごはんをたべて、コーヒー淹れて、ゲームして。好きなことをたくさんして(依存先をたくさんもち)、自分で自分を甘やかしてあげることは充分に意識的で、自立する手段なんじゃないかと。