二度目の指輪を買う話

指輪に関する記事は2年前にも書いたことがあるが、あらたな指輪についての記事を書こうと思う。

指輪を買おうと決めたのは今年の5月くらいだったか、ともだちにはふざけて「自分と結婚するため」とかなんとか言ってた気がする。でもあながち嘘ではないというか、今年はちょっとおおげさなんだけど自分の過去とちゃんと向き合ってちゃんと一緒に生きていこうね的儀式、フリーランスとして、演劇を続ける人として、自分を自分で支えていくんだみたいな誓いが、自分にとっては、おおげさすぎるくらい必要だった。恥ずかしかったから当初は書けなかったけど、その頃は妙に切実だった。


ここで書いている、とてもとても大切にしていたリングを去年の12月ごろなくして、ひどく落ち込んでいた。しかも、いつ失くなったのかもわからないのだ。とにかく忙しく、めまぐるしく、よゆうがなく、心がつかれていたことだけは覚えている。失ったことをまだ引きずるくらいには、約一年たってもどんな形状だったか思い出せるくらいには、あの指輪のことが好きだった。うつくしい鉱物と伝統技法でつくられた、とくべつなものだった。

同じブランドが、年に一回福岡にやってくるタイミングで大きな本番が来た。挨拶にだけ行こうかな、でも忙しくて行けないかもなと思っていたら、最終日に時間ができ、行くことができた。そこで、去年失くしてしまったことを話す。それはもう帰ってこないけど、同じものはないけれど、何か近いものやしっくりくるものがあればうれしいと思いがけず話していた。

私の指のサイズに合うものはなかなかないのだが、ありがたいことにいくつか合うものがあり、その石も大変美しかった。ずっと好きなものは、あいかわらずすばらしかった。なかでも、ひときわ特別な存在があった。うう、良い、本当に良い。ただ、どうだろう、私が連れて帰ってもいいものだろうか、と考えていた。また失くすかもしれないのに。足から落ちるくらいの量の汗をかいていた。先日読んだまた別のジュエリー作家の記事が頭をよぎったりもした。美しさのためではない。では、私はなんのために指輪を買うのか。

2年前に指輪を買った時は、守護的な役割として、自分と結婚するため(精神的自立、自分を大人だと改めて認識するため)に買っていた。パワーストーンの「パワー」などひとかけらも信じていないが、覚悟を可視化しようと思って、願って買いに行った。そしてある意味正しく失った。多忙さに追い詰められた果てに、気づけばなくなっていた。ただ、そのリングをつけて意識的に暮らしていた1年と数ヶ月で、私は変わった実感があるし、つづけていくために、とても大事な味方がいることに気づけた。演劇をつづける覚悟、というものがまえは必要だったが、今は少しちがった感覚でそれと立ち向かえるような気がしている。

だが、背伸びをして買ったものだったから、やっぱりものすごく落ち込んだ記憶がこびりついている。

では、今度はなんのために?ただ美しくて欲しいから、でもいいのだけど、美しいものがあっても自分にとって意味がないものを欲しがることができない。はたして背伸びをしてもう一度手を伸ばす価値があるのだろうか。そして、それを手にするのは私でいいのだろうか、もう私の身にはそんなにおそろしいことはないのに。私はいま、無理矢理自立に追い込まなくても、守ってくれるようなひとたちが、心からの本音で話せる存在がいるからだいじょうぶなのに。
指に光る青い石はほんとうにしっくりきていた。前に買ったものよりも、一層存在感がある。

ところで、その夜は蒼穹のファフナーの最終章を観に行く日で、とても緊張していた。別の問題もまだ大きいものが横たわっており、そのことも考えなければならない。仕事も溜まっているのでさっさと立ち去ってどこか喫茶店にでも入って片付ける必要がある。

どうしようかと考えを巡らせていたとき、「別れを乗り越える」という言葉が浮かんできた。きっとこれから大きなロスがやってくる予感というか、確実に予定されたものが見えた。

おいおい何言ってんだこのおたくは、と思われるかもしれないが、私は蒼穹のファフナー(と、ついでにいっておくと少女革命ウテナ)に対しては「本気」だ。それはあるいみ「いいよね〜、かっこいいよね」などと言う一定数いるキャラクター愛のファンとは相反する思想をもち、中途半端に面白いよねなどと話しかけられても困るレベルの、本気さ、だ。あの子供たちの不幸と、和解のために、誰かを守るために、ここにいたことを覚えているために、大切な人たちの未来をつなぐために、たたかう姿をみて、人生のいくつもの側面で助けられてきたので、欠かすことができない。そして、17年続いた作品が、ようやく最終章だというのだ。あの14歳の時正座して泣きながら見た最終回から、まさかこんなにシリーズが続くなんて。

ファフナーが続くということは、未来にたどり着くための歩みが進むということだった。ただし、続くということは、大切な誰かがいなくなるということでもあった。平和を手にするために、いつも誰かが犠牲になっていた。未来に生き続ける、生き残った人間たちは数々の別れを乗り越える必要があった。これ以上奪われることを拒絶するのは、生き続けることをやめることでもある。

だから、虚構のお話でよかった。フィクションならば、そこに一区切りがつけられ、ある意味では「永遠」にすることができる。先を見るのが怖いというファンたちの気持ちもよくわかる。未来はいつも過酷だ。でも、フィクションの終わりはつまり、作品とのお別れである。どちらを選んでも別れは必ずやってくる。

ファフナーの世界だけでなく、生き続けるとは、いくつもの大切に育てられてきたものとのお別れを繰り返すことだ。失くすのが怖いから大事なものを持たないのは、別れに対する勇気や覚悟がないからなんだろうなと思う。私たちはよわい。これでも強くなったほうだけど、よわい。そんなことを考えていたら、私は大切なものを大切にした結果、また失うのが怖いんだなという、先の見えない恐怖がはっきりと可視化されていた。

だったら失う可能性のあるものを、大切にする勇気のためにこれを持っていようという理由を見つけた。これを失くすこと自体が、とても辛いことをもう知っているから、大切にしようと。それで、とても怖かったけれどもう一度買ってみることにした。またしばらく節約生活をしなければならないが。

購入が終わり、お店の人と話していたら、「失くしたことに気づかないほど日々が大変だったら、もしかして体調も崩されたのですか」と聞かれ、まあ体調はプロジェクトのたびにいつでも崩しがちなんですがねあはは、と笑って返したら、その人は反して目に涙を溜めていて、びっくりした。
きっと、この人もこの指輪たちのことを愛していて、それが失われることにたいして心を痛めているんだと。そして何かに共感したのか、わたしのあはは〜という能天気な返しに、きっといろいろなことを想像して、泣いていた。この人にもきっと数々の大変、があったのだろう。その上で今日ここに立っているんだな。
「でもなんだか戻ってきたような気がします、ありがとうございます」と伝えた。何が、とは言わなかったけど。

いまわたしのなかにある、大切だと感じるものを大切にする努力をしようと思った。それも、自分の周り小さな世界ではあるが、平和を守るたたかいなのだと思う。