衝動的な人生、衝動的なコーヒー

かんぜんなる理性をもちあわせている人なんていないな、ということを28歳になってしっかりと理解してきたので、衝動的な行動をまのあたりにしてもそれをきっかけで相手を嫌いになったり、そのことだけで罪を着せる気持ちにはならなくなってきた。衝動によって自分がやってしまったことや、人にされたことは消えはしないけど。むねがときめいたりざわめいたりするのを止められないように、内なる衝動をコントロールできなくなった時にひとは何か「やってしまって」、後から後悔することもあるし、まあ結果オーライってこともある。「言ってしまった」言葉は人を殺しもするし、国をほろぼしもする。「やってしまった」行動で多くの戦争や殺人事件は起こったし。ブレーキを抑えながらアクセルをまわす、そしてブレーキをはなす、みたいな安定感がいつでもあればいいんだけど(二輪の教習中です)。

毛皮のマリーを観ながらそんなことを考えていた。みんながかかえている罪と衝動、みんながかかえている赦しと理性が、神とか、世界とかを創造するんだろうと思う。ソサエティーっ。時々、衝動的な行動をした人に「めちゃくちゃだ」なんて文句を言っているひとがいるけど、衝動は不幸も呼ぶし発展も呼ぶよなあとも思う、ので、そういう存在に文句を言うことも(尊厳を破ってこない限りは)なくなってきた。文句言えるのは、たとえば車寅次郎の妹ぐらいかな。尊厳は破られてないけど。まったく人生は劇場だねえさくら。

マイノリティの生き様が主題だと思っていた毛皮のマリーは、立ち上がったものを見ると衝動と理性、そして親子の話としても描かれていて、戯曲だけでは想像できなかった私のまだ足りないところを教えてもらったきがした。欣也の存在はどこか非現実的だと思っていたけど、物理的に閉じ込めないにせよあのような親子はどこにでもいる。だからあれはある親子の歪みと愛憎の話でもあるんだ、と。マリーは欣也に「復讐」だと言うとそのあと欣也もマリーへ「復讐だ!」と同じ言葉を使う。親の思想はいやでも子に引き継がれてしまう、あれもひとつのあったかい地獄の世界だったんだなあ。

舞台と観客の熱量が相互にすごくて、熱に浮かされて帰っていると、かおりさんとばったり会った。そして衝動でコーヒーを飲みに行って、衝動でいろんな話をした。いつもだったらもっと「これを言ったらこう思われるだろうか」なんてことがよぎるのだが、まったくそんなことなく、毛皮のマリーと、ガラパ(美術館公演が本当に素敵だった)のはなしをした。楽しかったなあ…。