アラビア、ソビエト、ハチクロ

私のフィンランド食器好きを知る人には、またかとあきれられそうだが、4050年前に作られたARABIAのヴィンテージカップを買ってしまった。お店の人と思わずたのしく会話をして、さいごに購入した商品を「未来につないでください」と言われて手渡された。ものを買うときにそんなことを言われたのが初めてだったので、ふしぎな気持ちだったし、ただわたしは食器を買っただけなのに、ヴィンテージ食器にかかわっている人にとっては「その人の生活によって価値あるヴィンテージがつながっていく」ような感覚なのかもしれない。なんだか、生活を肯定されているような気がする。そして同時に、そんなこと考えなくても、自分の生活は否定も肯定もされていないのに、こんなことを考えてしまうあたり面倒な性格だなと思う。

最近はいそがしくて自分の創作のための脚本を書く暇がなく、デザインと仕事の方の脚本が、気を抜いた瞬間に塔みたいにそびえ立っちゃう。ソビエト。あと、劇場がおさえられない。劇場、真面目に、おさえられないのどうかしている。いや、計画性を持ってお金を払いさえすれば劇場は抑えられるのだが、もう、そういうことできないのでは?とかなりむずかしい気持ちも同時にそびえ立っていて、とにかく時が来るのを待つ、みたいな感じだ。うちの団体はいつでも、私以外ガンガンいこうぜタイプじゃなくて「いのちだいじに」で、それはまあいいのだが、いのちだいじにのままじゃボス戦に行けないよお、みたいな焦りはある。ボスって一体誰なんだって感じだけど。演劇を継続することがこんなにむずかしいと思ってなかった。いや、ハードルを上げて難しく考えているのは自分なんだろうな。

もちろん動きは少しずつあるので、あきらめずに生きていきたい。ただ、私が「作りたいもの」と今やっていること、関わっていることは少なくとも一致していないことが多いのは事実で、一致していないとはいえ、文化のために必要だと思うから関わることを決めたんだったと思い出す。生活のため働き、文化のために働き、創作ができなくなっては元も子もないような気もするけど、そういったいろいろなもやもや、生ぬるい運命、を破っていける、つらぬくような創作の希望が自分の中でまだ見えないので、この秋は長いトンネルに入ってしまったイメージで過ごしている。そういうトンネルもありだと思って運転はできているが。できれば創作者と話したい。今書いている人と話したい。でも、それは甘えのような気もするから声はかけられないな。そうおもって、初心に帰るべくハチミツとクローバーを見たりした。が、なんだか余計にむねがくるしくなったな…。